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第263話
「その人の記憶がないのはそのせい?」
「今回のことで彼は耐え難い現実から逃れるため、それに直結するものを消したのではないかと……」
「やっぱり……」
和之さんはとても辛そうに目を瞑ると、静かに天井を仰いだ。まるで何かに堪えるような仕草に、見てるこちら側も辛くなってしまう。
ボクは堪らず彼を慰めようと、繋いでいた手をぎゅっと強く握った。それに気づいた和之さんはハッとした顔になり、慌てて瞼を開けるとボクに笑顔を向ける。
それからまた先生のほうに向き直り、ボクには分からないお話を続けた。
「先生、彼の中でその大切な人と誰かの存在が入れ替わるというか、混同することって有り得ることなんでしょうか」
「……というと?」
「どうやら俺とその『大切な人』との記憶がごちゃ混ぜになっているようなんです」
「……そうですね、無くはないと思います。辛い記憶は消してしまいたいけれど、大切に想う人の記憶を完全に失くしてしまうのは悲しい。そういう心理が彼の中で働いたのではないでしょうか」
「俺は彼にとって代わり……ですか?」
「いえそうではなく、彼は貴方だからこそ心の平穏を保てると思ったのだと私は思いますよ? その証拠に彼の心はいまとても穏やかだ」
そう言って先生はボクのほうを向き、ニコリと笑いかけてくれる。だからなんのことだか分からなかったけど、その優しそうなお顔に警戒心を抱くこともなくボクもニコッと笑い返していた。
「いまは無理に訂正したりせず、彼が事実を受け入れられるようになるまで付き合ってあげてください。いずれ自ら思い出す時がくる、その時まで我々は辛抱強く待ちましょう」
「そう……ですね、分かりました。『彼』にもそう伝えておきます」
和之さんが神妙に頷き、向かいに座る先生も優しげにふんわりと笑って頷く。どうやらそれで大事なお話は終わったみたいだ。なので脚をプラプラしてたのを止める。
「ふふ、チィさん難しいお話で退屈されたでしょう? もう終わったので病室に戻って頂いても結構ですよ」
「ん……もういいの?」
「詳しい説明は後日、貴方の身元引受人でもある茨 健吾さんにさせて貰うので大丈夫ですよ」
「それじゃ先生、失礼します。チィ、行こうか?」
「う、うん……センセ、バイバイ」
「はい、お大事に」
立ち上がり手を振ってバイバイすると、先生は笑顔でボクたちを見送ってくれたのだった。
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