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第352話

今いる建物は港の近くにあるのか、僅かに潮の香りがする。そんなことを頭の隅で思いながら、教えられた狭い通路を壁伝いにボクはひとり警戒心もなくとぼとぼと歩く。 勿論ここは普段からあまり使われていないらしく、殆ど人は通らないと事前に教わっていたからこそのこの歩調なのだが……。 正直さきほどの集団暴行が後を引き、脚を動かすのもツラい。でも煌騎たちの元に帰りたい一心で重い脚を1歩、また1歩と着実に前へと進める。 その間もボクの頭の中では昔の記憶が再生されていた。それは香住センセの手によって消されていた、彼との数少ない記憶だ。 幼少の頃から虐待を受けていたせいでボクは常に怪我が絶えず、軽い骨折や小さな裂傷ならばそのまま放置されていた……。 でも時には命に関わるような大怪我を負わされることもあり、その度にセンセが呼ばれボクに応急処置を施してくれたのだ。 もっともその処置の間も叔父さんの指示により麻酔なしで行われ、それを不憫に思ったセンセはある時から内緒であのお香を焚くようになった。 そのお香の香りを嗅ぐと不思議なことに恐怖が和らぎ、2~3日は痛覚も嘘のように消えてくれる。 それからセンセは度々ボクに痛みを逃がす方法や、辛い現実から逃れたい時に意識を空想の世界へ避難させる方法などを教えてくれるようになった。 ふとした時にどうしてボクにそんな良くしてくれるのと聞いたら、「私も似たような境遇の出なので…」と哀しそうに笑ったのを今でも覚えている。 だけど不審に思った叔父さんに盗聴器を仕掛けられ、呆気なくその事がバレてしまい、その日を境にセンセはピタリと姿を消した。 ボクは彼のことが心配で堪らなかったが、誰に聞いても知らないと言う。もしも自分のせいで酷い目に合っているのなら、代わりに罰を受けるからと叔父さんに懇願したが無意味だった。 それから数ヶ月後、センセは以前とは比べものにならないくらいの別人になってボクの前に現れたのだった。 あのお香はボクの記憶を操作するのに使われるようになり、冷酷となったセンセとは治療以外で言葉を交わすこともなくなった。 とても悲しい過去の記憶……。 センセはボクと関わった為に人格を変えられた。それを思うとどうにかしてあげたいと願うけど、非力で何の力も持たない自分には何もしてやれることはない。 それがもどかしくて仕方がなかった。

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