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ぽつりと、思わず漏れた言葉に、陸斗 自身が一瞬驚いた。海里 との時間は楽しくて、幸せで。だから当然、海里と暮らすあの家は、幸せの象徴とも言えた。そんなあの家に、大学で講義を受けていても、友人と外で遊んでいても、「早く帰りたい」と思っていたのに。
帰りたくない。帰るのが憂鬱だ、なんて。
しかし、陸斗が驚いたのは本当に一瞬で、すぐに自身の感情に納得する。
そもそも今、柚陽 と喫茶店で向かいあっているのだって、あの家が居心地悪かったからだ。空斗 とか呼ばれるガキのせいで、なにもかも変わってしまった。陸斗の居場所はもうない。
あの、子供向けに作られたハンバーグと、ケチャップベースの甘ったるいソース。料理上手の海里が作ったとは思えない、まっずいハンバーグの味を思い出した。
どうせ家に帰ったって、海里は陸斗とまともに会話をしない。陸斗が伸ばした手を振り払う。テーブルに並ぶ料理は、とてもじゃないけど食べられたものじゃない、ママゴトの延長線。
あれを食べるくらいなら、女共が押し付けてくる差し入れの方がまだマシかも。
家に帰りたくない理由なんていくらでもあって、そのあたりまで考えたところで、ふにっ、頬を軽く潰されたような感触と、突然のあたたかい温度に、思考は強制的に打ち切られた。
「りっくん、やっと笑った。急に難しい顔してたよ? ……そんなに帰りたくない?」
柚陽が陸斗の頬を両手で挟んでいた。ああ、さっきの感触は、このせいなんすね。
人との接触が久し振りで、忘れていた。体温が低い海里と違って、柚陽の体温は少し高めらしい。時折海里が触れてきた時は、もっと、ぎょっとするくらい、手がひんやりしていたから。
あたたかな柚陽の手。こてん、首を傾げる。大きな瞳は、今、陸斗だけを映してくれている。
誰かと触れ合うなんて、久し振りだと思った。あの、ぎょっとするくらい冷たい海里の手だって、あたたかいと思っていたのに、今ではそのあたたかさも忘れてしまっている。海里の手は陸斗を振り払うばかりで、空斗を撫でるばかりだから。
「帰りたくない。……あんなトコで生活するなんて、もう無理っす」
やさしくて、あたたかな柚陽の体温で凍えた心を溶かされたように、陸斗の口からポツリ、そんな言葉が漏れて。陸斗の頬を涙が伝った。
少なくとも、陸斗にとっては、そうだった。
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