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 潰れるというのも気にしないで、陸斗(りくと)は、まだ半分以上残っていたパンを袋に突っ込んだ。もう食べられたものじゃない。  パンの味は普通だったけど、今、波流希(はるき)と名乗った男が海里(かいり)の名前を出したせいで、とてもじゃないけど食べられるものじゃなくなった。  やっぱあんだけ無理矢理食わされてれば、トラウマにもなるっすわ。海里への怒りか、その名前を出した波流希への怒りか。陸斗はひどくイライラしてた。多分、その両方だ。  陸斗がむせたのも気にせず、波流希は、ただじっと陸斗を見つめている。  フツーそんなに親しくなくても、目の前で誰かが咳き込んだら、なんか反応するんじゃねぇっすか?陸斗自身、友人が咳き込もうと無関心なのだが、自分の事は棚上げして波流希を非常識だと見なす。やっぱアイツと付き合える人間で、頭オカシイんすわ。  もちろん、心配されたらされたで「うざったい」、ざまあみろと嘲笑われれば「性格が悪い」と評価したのだけれど。 「しっかし、あのアバズレ、一体何人に手を出すんすかねぇ? ガキの母親に、自分の友達に、次は幼馴染っすか。全員が全員、アイツに騙されてる? それとも自分だけは特別だってうぬぼれてる?」  そんな人間に自分も騙されていたのだと思うと、陸斗の中の怒りはますます強くなった。復讐の1つ2つ果たしたい。  でももう、顔を見るのも嫌なのだから厄介だ。 「もし幼馴染サンが何も知らないで、幸せごっこに夢中だったらごめんね? でもアイツは不貞を働いてる。女と作ったガキだっている。オレの方が被害者っすから、もし責めに来たなら相手を間違えてるっす」 「陸斗くんは、本気で海里がヨソで子供を作ったとか、男をとっかえひっかえ、遊んでると思ってる?」  波流希は陸斗の言葉に怒った様子もなかった。ただ、微笑みを浮かべて、穏やかな声音でそう聞いた。  誰がどう見ても波流希は笑顔だし、波流希の声はやさしい。それなのに、陸斗は何故か「怖い」そう思った。  理由なんて分からない。自分は被害者であり、海里の幼馴染に怯える必要なんて何もない。やましい事なんてないというのに。 「どう見たって、してるじゃ、ないっすか」  陸斗が絞り出した声は、なさけないくらいに震えていた。

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