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「ただいま、りっくん! 今日の授業、疲れちゃったよ~……」  玄関扉を開けて入ってきた柚陽(ゆずひ)は、絵に描いたようにぐったりしていて、本当に苦手な授業を受けてきたんだなと分かる。柚陽はその教授を苦手に思っていたし、科目自体もあまり得意じゃないようで、そういえばまだ友人同士の時から疲れ切っていたのを思い出す。  それでも手にはしっかり、店の袋を持っているあたり、買い物には行ってくれたらしい。袋からは良い匂いもしてる。スパイスを感じる香りは、辛い物が好きな陸斗(りくと)を考えてくれたんだろう。  いつもの、柚陽だ。  疲れ切っている様子こそあるし、疲れ切って帰ってくることは珍しいけど、その苦手な授業を受けた後は、いつも柚陽は疲れている。今日は発表だかなんだかが近いと言っていたから、それでいつも以上に疲れてるんだろう。 「ほんと、お疲れっす。柚陽は真面目っすねぇ。たまにはサボっちゃっても良いと思うっすよ?」 「あの教授、サボると怖いんだよねぇ」  うー、なんて、子供が拗ねているような声をあげて、頬を掻く。  なんの変哲もない、柚陽だ。それが全部、嘘でさえなければ。  柚陽は結局、大学に行かなかった。大学に行かなかったし、海里(かいり)の家にも行かなかった。  いくら海里との関係が崩れたからといって、かつて住んでいた家の場所まで忘れたりはしない。柚陽が向かったのは大学とも海里の家とも違う方向。それも迷っている様子はなくて、目的地がそこなのだと、正確な足取りで向かっていた。  マンションの1室に、まるで自分の家であるかのように入っていく柚陽を見て、結局陸斗はその場を後にした。  帰ってきた柚陽は、いつも通り、受けてもいない授業の話をしている。なんで隠しているんすかね。疑心暗鬼やモヤに侵されるのが嫌で尾行なんてしたのに、どうやら逆効果に終わってしまった様だった。  柚陽が買ってきてくれたいくつかの総菜は、確かに美味しいんだろう。陸斗の好みを考えて辛い物を選んでくれたんだろう。  でも、まるでゴムでも食べているかのような味のなさに、陸斗は1つ、危惧を覚える。このままじゃ、海里と同じ事をしてしまう、と。

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