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「……は? え、かい、り……?」  陸斗(りくと)は事態を理解出来ず、名前を呼んだ声はひどく情けなく震えていた。意味が分からなかった。状況が分からなかった。  だってここは、柚陽(ゆずひ)が来ていた部屋だ。多分、何度も。そして、ついさっきも。  正直、他の女や男がいる可能性は抱いていた。でも、でも、これってどういうコトっすか?  海里(かいり)は、ガタガタと震えてる。重い机に繋がれた手が、海里の力で動かせるはずもないのに、懸命に動こうとして。重たい椅子を蹴飛ばせるワケもないのに、足を無理に動かそうとして、青白い肌に傷が増えていく。  記憶の海里も細かったけれど、更にやせ細っていた。  そしてあの日、陸斗の目に、脳に焼き付いた白い包帯は、なくなっていた。でも薄暗がりの中でさえ、どう見ても“包帯を巻く必要がなくなった”ようには、見えない。包帯があった場所は青紫に腫れていたし、その上には深い傷が付いていた。下手をしたら膿んでいるかもしれない。足が変な方向を向いているのも、椅子に挟まれているだけのせいじゃないんだろう。ミシミシと海里の細い足を押しつぶそうとする音は、幻聴なんだろうか。  服はほとんど纏っていない。というか、乱雑に破られていて、服の役割を満たしていない。青白い肌には色々なアトがあって、綺麗だった髪にはカピカピになったナニカがこびりついていて。  見覚えが、あった。大学の自習室で、陸斗はこの光景を見下していた。どっか、恍惚さえ感じながら。気分が明るくなるのを、感じながら。  でも今はどうだろう。同じような光景のはずなのに、動揺とモヤだけが広がっていく。 「かい、り……」  もう1度情けなく震えた声で名前を呼びながら、陸斗は床に膝を着いた。赤や白の液体で汚れていたけれど、気にしているだけの余裕はもう、陸斗にない。  膝をついて、「かいり」さっきよりはしっかりと、名前を呼ぶ。海里には聞こえていないみたいで、いやいやと暴れるように手足を動かそうとして。でもそれは、ネジの切れたカラクリみたいに、突然、ぱたん、止まった。 「あ、ごめんなさい、うそです、いやじゃないです、オレ、こういうの、大好きだから、だから、もっとシてください……」  でも、それは平穏の訪れなんかじゃ、決してなかった。海里がうわごとのように必死で呟く言葉に、陸斗は頭を、脳を直接殴られたような衝撃を受ける。両目は開かれているけど、陸斗を見てはいない。何も見ていない。  オレは、何をしてたんすか。怯える海里を見て、初めて、陸斗の中に後悔が芽生えた。初めて、自分の中に後悔が生まれていたことを、陸斗は、自覚した。

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