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「……その、ありがと、な」  波流希(はるき)の家から出ようとしたところで、(みなと)が呟いた言葉に陸斗(りくと)は驚愕した。目を大きく見開いて、思わず、そこに港が礼を言う様な第三者がいるのではと探してしまう。波流希の両親は今仕事中で留守にしているし、他に誰か来れば気付かないなんてはずはないから、今玄関にいるのは、港と自分だけだと言うのに。  けれど恨み言ならともかく、港に礼を言われる理由なんてないのだ。驚いて、周囲を見回したところで、不思議もなければ間抜けでもないだろう。  チッ、港が小さくため息を漏らして、自分の頭の後ろを掻く。照れ隠しにしては強過ぎるし、港の内で渦巻く感情は、そんな生易しい物じゃないんだろう。  自分の大切な人間を傷付けた相手に礼を言う時の心境が、そんな可愛らしいものである筈もない。「お前だよ、お前!」港が吐き捨てるように付け加えたその言葉には、だから、どうしうようもない様なためらいとか、不機嫌とか、渋々とか。それでいて安堵だとか。そんな複雑な感情が混ざり合っていた。  港の目は伏せられて、床目をじっと眺めている。陸斗が港を直視できないように、港も陸斗を直視したくないのだろうって事は、人間関係に興味が無い陸斗でさえ、痛いほどに分かった。  だから無理に表情を暴こうとはしない。これ以上の無体を彼等に働く事は出来ない。  それでも。なんでオレに礼を言うんすか。その疑問は浮かんできて、消化できない。だってオレがした事は、恨まれたって仕方のない事、当然の事っすよ。そこまでは口にこそ出さなかったけど、目が十分にうるさく騒いでいたのだろう。「なんで」ぼうぜんと、思わずぽつりと出てきた言葉で、港は全てを悟ったらしい。  もっとも、この状況で陸斗が「なんで」なんて呟けば、鈍感な人間でも陸斗の内心は悟っただろうが。 「お前のした事を、海里(かいり)が許していたって、オレも先輩もきっと許せない。でもな、さっきも言ったけどオレ達だけじゃ多分、海里を見付けられなかった。見付けられたとしても、もっと後になって、手遅れになってたかもしんねぇ。今の状況がマシなんて言えねーけど、でも、これ以上落ちる前に海里を見付けられたのは、お前のおかげだから。……だから、いくら許してねぇとしても、それはそれとして、……この件に関してだけは、感謝も、してる」 「……アンタ、バカ正直なんすね」 「は!? テメェは相変わらず」 「ごめん、言い方が悪かった」  睨まれて、即座に返す。けれど、バカ正直だとは思った。もちろん、よりにもよって陸斗が港に言う事ではないのだけれど。  バカ正直で、素直で。でも、それは何より、 「海里を大切に思ってるんだな、って思ったんすよ。オレに報復したって良いのに」  何より、海里を大切に思っているからなんだ、と。  自分の手を陸斗は何げなく見下ろした。幸せを掴んだと思っていた。柚陽(ゆずひ)がこの手に幸せを乗せてくれたと思っていた。  でも今、この手にあるのは、何だろう。そもそもオレはあの時、幸せを掴んだんだろうか。  思わず考える陸斗の思考を、「はっ」どこか人を小馬鹿にする笑い声が、遮った。

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