341 / 538
6
「ここがオレの家なんですけど、上がっていきます?」
「あー、さすがにソコまで図々しくないっすよ」
喫茶店から歩いて10分ほどだろうか。「マンションはここです」と紗夏 が示したのは、特にコレと言って特徴のない、普通のマンションだ。めちゃくちゃ綺麗! って感じてもないし、今にも壊れそうなオンボロ具合でもない。大学生や高校生の1人暮らしに重宝しそうっすね。
思いながら紗夏がエレベーターで3のボタンを押すところを、ぼんやり見つめる。「触れたくない」っていうのは、人間でも物体でも変わらないのか、単に利き手の問題なのか。ボタンを押した手も、包帯が巻かれていない方だった。
単純に痛いだけかもしんないっすけど……なんとなく、この子なら「柚くんのくれた傷がある手では柚くん以外触りたくないんです」って幸せそうに言いそうっすよねぇ。きっとそれは、紗夏にとっては、憧れの人と触れ合った手を「洗いたくない!」なんて言うのと、同じ気持ちなんだろう。
そんな紗夏が、やっぱり包帯の巻かれていない手で示した表札を見て、「表札を見れば少しは分かってもらえる」と言った理由は、納得した。
「Sana.T」と彫られた表札は、間違いなく紗夏の家だろう。仮に間に合わせで用意したんだとしても。
紗夏からのお茶の申し出は苦笑を浮かべつつ断って、また改めて連絡をする約束を交わすと、陸斗 は紗夏のマンションを後にした。
ぼんやりとケータイを眺めながら歩く。港 から緊急を要する様な連絡は来てないし、柚陽 がチョッカイを掛けてきた様子もない。「便りが無いのが良い便り」。気にもなるし、柚陽が絡むとそうも言ってられないけれど、今はそう思ってるしかない。
「……ただいまっす」
自分の家に帰って、まだ言うのに躊躇いのある言葉を、どうにかこうにか口にする。もちろん返事はない。胸が冷たくなるけれど。
そっと、まだなんの連絡も来ていないケータイを撫でて、陸斗は靴を揃えて脱いだ。海里 の靴も、いつからか使われないまま、ちょこんと行儀よく並んでいる。
ともだちにシェアしよう!