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「別に嫌味なんて言ってないっすよ。つーかさっきも言ったでしょ。オレはアンタに嫌味を言える立場じゃねぇんだって」  不機嫌を露わに、目に見えてイライラとしていた柚陽(ゆずひ)は、陸斗(りくと)の言葉に目を細めて睨み付ける。両目とも不機嫌を残したままだし、柚陽の性格を少し知っているからだろうか。  一応は紗夏(さな)と会っていない、紗夏は柚陽の後輩であると知らないという点は押し通しながら探りを入れているから、かもしれない。  柚陽のその目には、嫌な迫力があったけれど、ここで動揺するワケにはいかない。陸斗は普段通りにそう返した。  と言うか、その言葉自体は演技でも作戦でもなく、事実だ。  陸斗が海里(かいり)にしたことは変わらないし、柚陽と違って陸斗はそこに「歪んだ愛」さえなかった。どっちかと言えば、嫌味を言えるのは柚陽の方のはず。  柚陽が陸斗を睨んでいた時間は一瞬だけれど、恐怖と緊張とで陸斗にはいやに長く感じられた。  陸斗が臆病というより、この状況は、程度の違いがあれ、誰だって怖いだろう。なんせ1歩間違えるだけで、なにもかもが崩れるし、最悪の方向に向かうだけになるんだから。  今度こそ守りたいと思った大切な人を、また傷付けてしまうことになるんだから。 「あ、そうかぁ」  唐突に柚陽が口にした、その言葉は、いつものように弾んでいる明るいもので。だけど隠し通せない苛立ちも滲んでいて。正直、柚陽の心境や本音は読みにくいし、狙いがバレたのかどうかも、判断が付かない。  顎に人差し指を添える、その仕草をみせるだけの余裕は出来たみたいだけど、爪先は落ち着きなく床を叩いている。トントントン。スピードのある、軽快とさえ言えるリズムの間で、「りっくんは海里にしか興味なかったし」独り言なのか、会話なのか、はっきりしないトーンで言葉を紡いだ。 「そんな海里の過去でさえ知らなかったんだもん。他の人間の昔話をしっておけ、って言う方が無理だよねぇ」  こてん。首を傾げて、同意を求めるように、「ね?」そう付け加えた。それで一応会話の体であったらしいことを悟る。  今でこそ少しは知っているが、当時はまるで知らなかった。誰かの昔話になんて、まるで興味なかったし。だから陸斗が頷けば、「はあ」なんて大きな、わざとらしい溜息を1つ。 「そーやって無意識にマウント取られるのも気分良くないから、特別にちょこっと、教えてあげるね」  にっこり微笑んで、柚陽は告げた。緊張で掌を汗が伝った気がした。

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