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「お前だってな」  さっきまでまるで聞こえてこなかった隼也(しゅんや)の声が耳に届く。怒りで震えた声。いつのまにか両目に湛えられた色は、憎悪1色になっていた。どろりと濁ったドブで、ぎろりと燃える炎。  普通に、真正面から見たら、怯えて声も出ないかもしれない。なんて、冷静に考えるほど今の陸斗(りくと)はなにかが切れて、外れていた。人間が生命を維持するのに重要ななにかさえ、捨ててきてしまったみたいに。  陸斗はただただ隼也を睨むし、隼也は陸斗を睨む。腕を生ぬるいナニカが伝う。病室で嗅いだのと同じ、鉄錆のニオイ。それが陸斗の怒りに、更に火をつける。  果たして隼也はそれを知らないのか、知ったことではないのか。 「お前だって、オレの中じゃ立派に恨みの対象で、要注意人物なんだよ!!」  隼也が叫びながら右手を思い切り振るう。ぎろりと何かが鈍く光って、赤黒い飛沫が散った。玄関扉の周辺が、それで汚れる。まったく、誰が掃除すると思ってるんすか。  思わずそんな見当違いなことを不服に思ってしかめられた顔にも、隼也は一切反応せずに、尚も喉を震わせて叫び声をあげた。 「お前が柚陽(ゆずひ)を本気でオトせば! 月藤(つきとう)のことだって手放したのに!! それにな、お前が月藤と親しくしてんの、実は知ってたんだよ。だけどお前なら問題ないって耐えてた。でもな、やっぱダメだわ。お前もダメ。月藤が心配」  話している内に脱力したのか、また、だらんと腕が下がった。おかげで赤黒い飛沫は散らなくなったけれど、少し掃除が面倒なくらいには汚れきっている。  やれやれ。陸斗はため息を漏らしそうになって、ぽた、ぽた。わずかに地面を液体が打つ音を聞いた。足元から。  後につられて目線をそっちに向ける。なにかが腕から垂れていた。さっきまで隼也が散らしていた飛沫に酷似した色。病室で嗅いだのと似たニオイ。「ああ、さっきの、刺されてたんすね」なんて今になって自覚した。 「オレはあの時、確かに柚陽が好きだった。海里(かいり)を恨んでしまってた。柚陽との幸せのため、海里を傷つけたオレには言われたくないと思うっすけどね。アンタ、やっぱダメっすわ。紗夏(さな)のことを考えてねぇし、自分勝手だ」 「お前になにが分かんだよ!? 今まで冷血だったクセに。そもそも紗夏なんて親しげに呼ぶな!! やっぱお前もダメだわ、月藤に悪影響だ」  隼也の手が強くナイフを握りしめる。陸斗の出血量を考えると、その刃には少し血液が付着しすぎてる気がした。  ……海里の? そこに至ってしまえば、陸斗の理性が削れるのも早い。しかし陸斗の中でまたナニカが切れるより先に、 「あーあ! ほんと、やだやだ!! 学習しないし、無責任にふわついてて、綺麗さも愛も責任もないよねぇ」  この場には不似合いな、無邪気で明るい……でもそれでいて明らかな苛立ちを含んだ声が、割って入った。

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