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 少し。  ほんの少し、期待してしまう。記憶喪失になっても名前を覚えていたということは、それだけ特別な感情を抱いているんじゃないか、って。  だけどコレだけじゃ、紗夏(さな)のことをどう思ってるか分からない。不審に思われるかもしれないけれど、少しだけ踏み込んでみようか。  ぐっと拳を握りこみ、陸斗(りくと)は覚悟を決める。異様に口の中は渇いているが、極めて自然体でいなけれは。記憶をなくしていても柚陽(ゆずひ)なら、僅かな綻びから紐解いてしまいそうだ。  今まで散々苦しまされてきた無邪気な笑顔が浮かぶ。今はその面影なんてないけど。 「そういや、アンタと紗夏、どんな関係なんすか?」 「あ、やっぱり紗夏の顔見知り、って感じ?」  無邪気な笑顔や子供っぽい動作は演技でも、こてんと首を傾げるのは、素であるらしい。  陸斗の言葉にこてん、首を傾げて柚陽が問い掛けた。……紗夏のためにも、ここは慎重にやらないといけないっすね。  折角紗夏の想いが形になりそうだったのだ。柚陽と紗夏の間が落ち着きそうだったのだ。それを自分の些細なミスで壊してはいけない。  自然体でいようとしても嫌でも緊張してしまって、陸斗は唾を飲み込んだ。 「まあ、そんなとこっす。そこまで親しくはないんすけどね」 「ふーん? だけどお見舞いには来てくれるの?」 「まあ、頼まれたんで」 「紗夏本人は来ないのに?」  こてん。首を傾げてぶつけられた疑問は、もっともだ。陸斗を忘れ、紗夏の怪我を忘れたのであれば、この状況は極めておかしいだろう。  少し背筋をゾッとさせる声音に、やはりこの男は柚陽なのだと痛感する。記憶喪失というよりは、記憶の欠落で、ある程度は陸斗もよく知る柚陽を保っている。  さて、適当に嘘をつくべきか、それとも「怪我をした」程度に本当の事を語っておくべきか。  陸斗が迷ってる時間は1分にも満たなかっただろうし、分かりやすく顔にも出ていなかったと思う。  それでも何かを悟るには十分だとでも言うように「あはは」柚陽は笑いだした。  病室には少し不似合いな笑い声をあげた後、「大体察しはついてるけどね」そう吐き出した。  呟いた、ではなく、吐き出した。あるいは吐き捨てた、とでも言うべきだろうか。  顔はしかめられていて、手は布団を強く強く掴んでいる。白い清潔なそれに、シワが寄っているのを気にも留めずに。  この顔、この声を、陸斗は知っている。これは、 「あのクソアニキ気取りが許すワケないもん」  隼也(しゅんや)と対峙した時のそれだった。

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