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「唇、カサカサですよ」 笑いながら言われたその言葉でハッと我にかえると、俺は彼の手を振り払い一目散に走って逃げた。 背後から「また今度」と聞こえたけれどそんな事にも構って居られない。とにかく気味が悪くて。アパートに帰り、すぐに鍵を閉めた。玄関の扉を背に息を整えて、そのままズリズリと床に座り込む。 「………っ」 心臓が痛いのは、走った所為だと思いたい。はぁ、と息を吐いて立ち上がり、靴を脱いで脱衣所に向かうまでに靴下も脱いだ。とにかくスッキリしたくてすぐにスーツを脱いでハンガーにかけると、シャツを脱ぎ洗濯機に放り込む。 脱ぎ捨てた下着も放り込んで、シャワールームに入ると頭から水を被った。 冷静になりたかった。心臓はまだバクバクと早鐘を打ち続けて居て、気分が悪い。バシャバシャとシャワーの水がタイルに落ちていくのをぼんやりと見つめて、また息を吐いた。 明日も仕事だ。はやく気持ちを切り替えないといけない。さっさと体を洗って、明日の準備をしなければ。それに、引越しの準備も進めていかないといけない。 「やる事だらけだな」 ポツリとつぶやいて、シャワーを止めた。 眠りは浅い方だ。と思う。 最近は特に、うなされて起きることも多くて、あまり疲れも取れない。それでも、今は仕事に集中する方が楽だった。 朝、眼が覚めると息が詰まっている感覚に陥る。すぐに起き上がり時間を確認すれば、朝の五時。仕事に行くには随分と早い時間だ。起き上がりリビングに足を運んでから、ふと冷蔵庫の中身がからだった事を思い出した。 酒もあまり飲まないから、本当に空っぽだ。 流石に何か腹に入れなければいちにちもたないきがする。 仕方がない、コンビニにでも行くかとパーカーを羽織り、サンダルを履いて部屋を出た。 「あ」 「………」 「おはようございます。美景さん」 自動ドアが開いて中に足を踏み入れた瞬間に、足を止めて目の前の彼に背を向けた。 「待ってください」 アパートに帰ろうと歩き出すと、目の前に彼が、「音無」と名乗った彼がにこりと笑って立ち止まった。 「…何か」 「おはようございます」 「…………おは、よう。それで?何か用でも?」 ため息混じりにそう言えば、腕を組みながらそうですね、と言葉をつなげる。 「昨日の質問の答え、出ましたか?」 ーー貴方は今、生きて居ますか? 「くだらない事を聞くのはやめてくれ」 「美景さんはここ最近楽しい事とかありましたか?」 「はぁ?そんな事お前に関係ないだろ!」 「音無です。美景さん」 ゾッとするほど、綺麗な微笑みに息をのんだ。 「……意味がわからない事を言わないでくれ」 「どうせ死にたくなるのに、なぜ認めないんですか?俺には家族がよくわかりませんから、その気持ちはあまり理解できないけど、悲しくてもなく暇もないし、仕事しかない。趣味もなければやりたいことも特にない」 「なんなんだお前、意味が」 「だから、音無ですよ。美景さん。音無って呼んでください」 話が通じない相手と言うのは、目の前の彼の事を言うのではないだろうか。昨日から、意味がわからない。ただ、 ただ、少しだけ 「…俺は仕事があるので、そんなくだらない話しにはこれ以上付きあっていられない」 「そうですか?じゃあ美景さん、また後で」 彼と話していると、落ち着かなくなる。落ち着かないし、モヤモヤして仕方がない。 アパートへの帰り道で結局何も買わなかったなとうなだれたまま、出社した。

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