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もう一つのリクライニング 1
深夜までの仕事が続いていたある夜、東城が竜崎にからかうように言った。
「お前の仕事のことわかってるとはいえ、美人の奥さん寂しがってるだろうな。たまには早く帰れるようにしないと」
竜崎は仕事の手を止めず「妻とは、別居している」とこたえた。
「え?」と東城が驚いて、顔をあげ、竜崎をまじまじと見て聞き返してきた。「なに?」
色々説明する必要もないだろうと、あっさり「離婚協議中だ」と答えた。
東城は、しばらくその言葉を考え、呟くように、だが、竜崎にはっきり聞こえるように言った。「俺、結婚式でスピーチしたんだよな」
「そうだったな」
「家にも遊びに行った。美人でよくできた奥さんだったのに、どうして、また。仕事し過ぎでいよいよ愛想つかされたのか?」
「いや、仕事は関係ない」と竜崎は答えた。「別な理由で、僕に愛想が尽きたんだ」
東城がさらに驚いた顔をする。「お前に限ってまさかとは思うが、浮気したのか?」
「『お前に限って』なんてよく言えるな」と竜崎は苦笑する。
東城は年齢も階級も上の竜崎に、こうやって親しくため口を聞いてくる。親しい友人と思っているのだろう。職場でこういった口をきいたら、普通なら叱っているところだが、東城には好きにさせていた。
東城が話を続けている。「ほんとに浮気なのか?だったらさあ、謝れよ。誠心誠意謝って、土下座でも何でもして、謝り倒せ。泣いて謝れ。とにかく謝り続ければ、最後には、許してくれるから」
「それは、東城の経験から言ってるのか?」そういえば、大学生のころに二股かけて殺されそうになったって言ってたな、と竜崎は思い出した。それ以外にも二股や浮気なんて、散々してきたのだろう、この男は。
「そうだ。平謝りしつづけて許してくれない女はいないぞ。連中は真面目で潔癖だから浮気とか確かに嫌がるけど、ずっと謝られると同情心がわいて許すんだ。共感性が高いから、冷たくし続けられないんだ。許してもらえるまで、いや許してもらってから後もことあるごとに嫌味を言われたり批判されたりするから頭にくるだろうけど、そこで切れたらだめだ。とにかく謝るにつきる」
竜崎は首を横に振った。「忠告はありがたいが、東城が考えているみたいな浮気が原因じゃない」
「じゃあ、なんだよ。わかんねえな。お前、彼女とお似合いだったじゃないか。なんていうか、理想の夫婦って感じで」
実際そうだったのだ、と竜崎は思った。
彼女を大切にしようと思っていた。穏やかな家庭を築こうとしていたのだ。だが、できなかった。
事の真相をしったら東城は何というだろうかとふと想像してみる。
だが、すぐにやめた。彼が知ることは永遠にないのだから。
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