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act.1誘惑クローバー<54>
* * * * * *
「ん……ん」
葵が深い眠りから目を覚ますと、そこは見覚えのない部屋のベッドの上だった。ふかふかの布団の感触も、部屋にほんのりと漂う落ち着いた香りも、自分の部屋のものとは全く違う。
体を覆う倦怠感に耐え、葵がゆっくりと上体を起こしてきょろきょろと辺りを見渡すと、窓際のロッキングチェアに腰掛けて洋書を読む忍の姿を見つけた。
「葵?やっと起きたか。気分はどうだ?」
忍も葵が起きた気配を感じて顔を上げた。そしてまだ状況を掴みきれていない様子の葵に小さく笑いかけてやると、本をそばの棚に置いて立ち上がりベッドまでやってきた。そして葵の隣にくるように腰掛けてくる。
「……あぁ、少し目が腫れているな。あれだけ泣けば当然か。冷やしておけばよかったな」
労わるようにそっと目元に触れてくる忍の指のひんやりとした感覚が、熱を持っている目元には心地よかったが、それと同時にどうしてそこまでなるほど泣いていたかの理由を葵は思い出してしまった。
「……櫻、せんぱい」
葵が泣きそうな顔で呟いた名前に、忍は自分が少し配慮の足りない物言いをしたことに気付いた。
「悪い。いやなことを思い出させたな。……立てるか?」
こくんと頷いた葵の手を引いてベッドから連れ出すと、忍はリビングのソファへと誘導した。そして座っていろと命じると、奥に消えてしまう。
葵はどうしていいか分からずに迷ったが、言われたとおりベロア生地の柔らかな二人掛けソファに腰を下ろして忍の帰りを待った。
そうしてどのくらい待っただろう。実際はほんの数分だったのに、一人で待つのがどうしようもなく寂しく感じた葵は忍がカップを持って戻ってきてくれるまでの時間が何十分にも何時間にも思えた。
「猫舌だろう?少し冷ましたから、飲め」
言葉だけ聞くと、なんだか威圧的なものだが、カップを渡してくれる忍の目は随分と優しい。葵は忍のそんな優しい視線を受けながら、渡されたカップに口をつけた。そっと喉を通るココアは本当に温かくて、そして染みるほど甘くて、葵が大好きな味だった。
だがココアを飲んでいるうちに段々と、葵はまた急に自分に何があったのかを思い出してきた。温かいココアとは真逆の、ステンレスのテーブルの冷たさがなぜか蘇ってきたのだ。
「会長さん……ごめんなさい。また、いい子に、できませんでした」
ココアで温まったはずの葵の体がまたびくびくと震えだした。忍からは俯いてしまった葵の表情は伺えないが、きっと泣きそうになっていることは容易に感じられた。
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