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act.2追憶プレリュード<79>

「そういえば昨日、西名くんが泊まったこと、噂になってますよ」 どうして京介が泊まりに来たことが噂になるような出来事なのか。今までの話とどう繋がるのか。葵にはそれが理解できず小首を傾げた。 でも少し思考を巡らせて答えに辿り着いた。 「あ、規約違反…だから、ですか?」 未里はそれに対して正解とも不正解とも言ってくれない。ただ葵の心を見透かそうとするようにジッと目を覗き込んでくる。 「注目されている立場、っていうのは自覚したほうがいいと思いますよ。それに、葵さんの代わりに誰かがいつも盾になってるってことも」 未里の言葉は葵にとっては抽象的に思えてどうしてもピンと来ない。でも”さっきの奈央さまみたいに”、と親しい先輩の名を付け加えられたら、”分からない”では済ませない。 「葵さん、気をつけてくださいね。とっても心配してるんですから」 再度未里からもたらされた忠告。言葉の響きは本当に葵を気遣っているようにも受け取れるが、その真意は彼の瞳を覗き返してみても見当たらない。 それでも心配してくれていると言う先輩の言葉には答えたい。 「……ありがとうござい…」 「葵ちゃん、何やってるの?」 お辞儀とともに葵が発した礼は凛とした声音にかき消されてしまった。 「あ、月島さん」 葵よりも先にその存在に気がついたのは未里のほうだった。少し表情を強張らせ、葵の髪からも慌てて手を離す。けれど、櫻はそんな未里を少しも視界に入れず、ただ、葵のほうにだけ向かって歩み寄ってきた。 「全く、葵ちゃんはほんとに目が離せないんだから」 「櫻先輩、濡れちゃうから」 「いいよ、寒いでしょ?」 近づくなり櫻は思い切り抱きしめてくれるが、葵は自分の体が濡れているのを気にして慌てて離れようとした。でもさらにきつく抱きしめられてしまう。その瞬間、櫻の髪や制服からバラのフレグランスがふわりと香ってくる。 「早く温まろうね」 櫻はそう言うと、傍に居心地の悪そうに立っている未里へとようやく視線を向けた。その目つきは葵に対するものとは違いひどく冷たい。 「それ奈央のでしょ?」 「あ、それ僕がさっき借りて…で代わりに返して下さるって…」 「それなら葵ちゃんが自分で返しなさい」 未里が大事そうに抱えるネイビーのカーディガンの持ち主に気がついた櫻が咎めるから、葵は慌てて事情を説明する。だが、あっさりと切り替えされてしまった。 「どうせ奈央と話す口実が欲しいだけなんだから、手助けする必要ないでしょ。ほら、早く」 もう一度櫻が冷たい目を向ければ、未里は少々不満そうではあるが櫻の指摘が図星なのか、大人しく櫻の手にカーディガンを返した。 「さ、葵ちゃん、行こう」 カーディガンを受け取った櫻はもう未里に用はない、とばかりに葵の背中を押して別館に入ろうとする。葵も全身が冷え切って震えが止まらなくなってきたから早く着替えたいが、その前に、と未里の背中に声をかけた。 「ありがとうございました!」 ここまで付き添ってくれたのは間違いない事実。さっきは櫻に遮られて最後まで言えなかったが、今度はちゃんと彼に礼を伝えることが出来た。 けれど、驚いた顔で振り返った未里は瞬時に眉をひそめて無言でまた背を向け、走り去ってしまった。

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