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act.2追憶プレリュード<81>
「それならまず、その泣き虫を直すこと。で、風邪引かないように早く着替えなさい」
櫻にそう言われて葵は初めて自分の瞳に涙が溜まっている事に気が付いた。でも溢れないよう慌てて袖でゴシゴシと乱暴に拭おうとするとその手は櫻に捕まえられ、そのまま部屋へ戻る道筋を誘導するように引かれてしまう。
「でも僕はね、泣き虫な葵ちゃんが好きだよ」
涙を堪らえようとした葵を止めた理由を櫻はそんな風に説明してくれる。
「それに、手のかかる葵ちゃんが好き」
言葉通り、葵の濡れたブレザーのポケットからルームキーを取り出し、部屋の扉まで開けてくれる櫻の表情は本当に楽しそうだ。
どこまでも面倒を見てくれる気なのか、部屋に入った櫻は迷いなくベッドの上に置かれたカバンから着替えを探し出そうとし始める。
「あ、自分で…」
「いいの、着替えさせてあげるから」
葵が慌てて止めに入るが櫻はやめる気はないようだ。だが、カバンのファスナーに手を掛けた所でふと、新しい悪戯を思いついたような表情を浮かべる。
「芯まで温まったほうがいいからお風呂、入ろっか。準備してくるね。服脱いで待ってなさい」
彼なりの優しさなのかもしれないが、葵の意向など完全に無視なところは櫻らしい。
なぜか葵の部屋に備え付けのバスルームではなく、廊下へと出ていってしまった櫻を見送った葵は、シンと静まった部屋の中で”どうしよう”と小さく呟いた。
着替えさせると宣言されてしまうと気になるのはシャツの袖で隠した腕の傷。
今朝着替えたとき、傷を隠すように包帯が巻かれていることに気がついた。昨夜葵が眠っているうちに京介が手当をしてくれたのだろう。
京介に禁止されている行為を見咎められたのはショックだったが、他から直接的に傷を見られる心配を減らしてくれた幼馴染の優しさには随分救われた。
でも、今朝逃れたばかりの入浴というピンチがこうしてまた訪れてしまう。
氷水を浴びてシャツの下の包帯までぐっしょりと濡れている状態では着替えない、風呂で体を温めない、なんて選択肢はどう考えても不自然だ。
更に普段は高飛車で我儘な先輩が何から何まで葵の世話をすることに楽しさを見出してしまっている。きっとどんなに断っても強引に手伝ってくれるに違いない。
その気持は何より嬉しいが、こんな時は非常に困る。
途方に暮れた葵がもう一度漏らした困惑の言葉は、静まる部屋に響くだけで、誰も答えなど返してくれなかった。
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