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act.2追憶プレリュード<85>

「そこから降りろ、下に」 「……戻れ、ない」 「嘘つけ。登ってこれたのになんで降りれないんだよ」 部屋に上げるという選択肢を提供したくない櫻は、窓から出て行けと命じるが、都古はツンとそっぽを向いてはぐらかしてくる。葵に会う、という目的のためにも、何としてでもここから侵入することに決めたらしい。 勝手に決められても困るが、かといって突き落とすわけにも行かない。さすがにそこまでの暴力を振るえない櫻は仕方なく部屋に備え付けのスリッパを持ち出して窓の下に置いた。 「せめてコレ履いて」 素足で行き来されるよりはよっぽどマシである。スリッパは用が済めば捨てればいいだけのこと。 「……アオ、ここに、いる?」 大人しくスリッパを履いた都古は一旦廊下に出ようとしたものの、部屋に残る葵の匂いを察して足を止めた。色のない都古の顔に微かに怒りが滲み始めている。始業式のことを思い出したのだろう。 「君ホント鼻利くよね。感心するよ。そこまで来ると」 壁を伝って登って来たことといい、葵の匂いを嗅ぎつけたことといい、”猫”を名乗っても不自然ではないぐらい人間離れしてきている都古に対し、櫻は呆れ以上に素直に驚きを隠しきれない。 「葵ちゃんがなんでここに戻ってきたか聞いて来たんでしょ?今体冷えてるからお風呂入れてるところ。言っておくけど、何もしてないから」 始業式のあの事件の日の時のように掴みかかられたら堪らない。櫻が一応状況を説明してやれば、都古は怒りを鎮め、またいつもの無表情に戻る。と同時に、躊躇いもなく葵を求めにバスルームへと駆け出してしまった。 勝手にバスルームに入られるのは不愉快だが、止めて騒ぎになるのは面倒だ。それに葵の様子が心配だったから、自分の代わりに都古が様子を伺ってくれることに少し安堵している気持ちは否めない。 でも素直に認めたくはなくて、都古の背中にこっそりと棘のある言葉を投げてみる。 「いいよね、葵ちゃんのことしか考えなくて済む奴は」 葵以外何もいらないと公言し、全力で態度に示す都古を羨ましくなることがある。自分も都古のように、その身を捕らえるしがらみ全てを捨てられたらとも思う。 でも今は自分なりの愛し方を模索しながら、葵との距離を地道に縮めていくしか手段はない。 バスルームから、愛猫の登場に驚く葵の声がわずかに漏れ聞こえてきたのをきっかけに、櫻は一度部屋を抜けることにした。 そろそろランチの時間。 きっと奈央がおさめたバスケ部の生徒との諍いは噂に尾ひれが付いて広まっているだろうから、このタイミングで葵を本館の広間へ出させるのは控えさせたい。 だからまた昨晩のように食事を別館に運ぼうと考えたのだ。 そして、先程見つけた濡れた包帯の代わりのものを用意してあげたい。 ────どうやって渡そう? 葵を傷つけないように接するにはどうしたら良いのか。櫻が葵が隠そうとした秘密に触れたと知ったら、どんな反応をするのか。 不安に胸が騒ぐが、放っておくことはできない。 櫻は普段は滅多に見せない薄弱な表情を浮かべたが、またいつも通りの自信のある学園のクイーンの仮面を被って歩きだした。

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