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act.2追憶プレリュード<116>

「葵くん、今下の階に西名くんと烏山くんが居るんだ。呼んでこようか」 葵の様子を見た奈央が、その涙自体には触れずにそう提案してくれた。でもこれは悲しい涙でも苦しい涙でもない。では何かと問われれば答えるのは難しいが、それでも今はただ奈央の優しさに触れて体が溶かされているような感覚なのだ。 だから葵は首を振って奈央の提案を断った。今京介と都古に会えば、きっと甘えすぎて取り乱してしまいそうな予感もするからだ。 「なんで京ちゃん達が別館にいるんですか?」 「あぁ……そのなんて言えば良いのかな」 浮かんだ疑問を考えなしに口にすると、奈央に少し困った顔をさせてしまった。でも奈央はベッドに腰掛ける葵の正面のスツールに座りながら、言葉を選んで説明をしてくれる。 「西名くん発案でバスケ部と試合をしたよね。その試合をする経緯がバスケ部の子と認識のずれがあったみたいで、少し揉めちゃってね。だからその話を聞くために来てもらってるんだ」 奈央の説明は曖昧なものだったが、大まかな内容は理解できた。もしかして、と葵の頭に浮かぶのは怒ってきた三年のバスケ部員安達の顔だった。その”認識のずれ”のせいで彼は葵にも怒ってきたのだろうか。 「本当に些細なすれ違いだから、大丈夫、心配しなくていいよ。西名くんからもただ話を聞いているだけだから」 葵の不安を悟った奈央がそう言って安心させるように髪を撫でてくれた。こうしていつも自分がきちんと理解出来ぬまま問題が解決されていく。ありがたいようで、未里からの指摘を思い出すと胸が切なく痛んでしまう。 でも奈央から頭を撫でてもらう時間が葵にとっては心地よいもの。そっと目を閉じてしばらくは奈央の優しさに甘えるように浸っていると、その静寂を破る乱暴なノックの音が部屋に鳴り響いた。 そして、低いが馬鹿でかい声まで聞こえてきて中断を余儀なくされる。 『ふっじさわちゃーん』 「……上野、先輩?」 「だね。うるさいなぁ。待ってて、すぐやめさせてくるね」 その声の主がすぐに誰だか分かって葵は扉を開けに向かおうとするが、やんわりと奈央に静止されてしまう。 そうしてしばらく部屋の入口から奈央が訪問者の騒がしさを叱る声がした後、ようやく金髪の長身が現れた。 「藤沢ちゃん、具合どう?ほれ、これお見舞い」 大きな口を三日月型にして笑う幸樹がベッドの上に腰掛ける葵に差し出してくれたのは数冊の絵本だった。

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