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act.2追憶プレリュード<133>

* * * * * * 首筋に伝う雨粒の感覚で幸樹はようやく眠りから目を覚ました。気が付けばあれだけ澄んでいたはずの空からは少し強めの雨が降り注ぎ始めていた。 そしてもう一つ、幸樹は気が付いた。 「……藤沢ちゃん?」 確かにしっかりと腕に抱いて寝たはずの小さな存在が消えている。 ブランケットも、絵本も、傍に置かれたまま。靴も履かせずに連れてきたというのに一体どこへ消えてしまったのか。 「藤沢ちゃん!」 立ち上がって周囲に響くように名を呼びかけるが、当然の如く何の返答もない。だが、言葉の代わりに幸樹の耳に微かに水音が聞こえてきた。雨が地面を叩く音ではない、明らかに水の中で何かが動く音だ。 途端に嫌な予感が湧き上がり、すぐ傍の湖の岸まで駆け寄った幸樹の目に、悪夢のような光景が飛び込んできた。 あれだけ美しかった群青色の湖が、いまは雨を受けて灰色にくすんでいる。そのくすんだ水面に、見覚えのある影が浮かんでいるのだ。 水色の地に白いストライプのパジャマの上下。白い手足。そして暗い闇の中でなお輝くように揺れる淡い金色の髪。 探し求めていた葵、そのもの。 どうしてそんなことになったのか、考えている暇はない。ただ無我夢中で湖に飛び込むと、今にも沈みそうになっていた小さな体を抱きとめた。あれだけ温かかったはずの体は、今は氷のように冷え切っている。 水音が聞こえたばかりだから湖に落ちてからそれほど時間が経っていないはず。 岸に上がった幸樹はひとまず葵の体を横たえると、呼吸と心臓の鼓動を確認した。呼吸はしていないが、心臓はまだ弱々しく鼓動を続けている。”生きている”、その事実がこの事態を把握しきれず混乱していた幸樹の頭に冷静さを与えてくれた。 数度人工呼吸と心臓マッサージを繰り返せば、ようやく葵がむせながら飲み込んだ水を僅かに吐き出してくれる。ひとまずは最悪の状態を抜け出すことが出来たらしい。 でもまだ葵の意識は途切れたまま。早く医療機関に連れて行かねばならないことは明らかだった。 放って置かれたままのブランケットで葵の体をくるんで抱き直すと、揺らしすぎないよう細心の注意を払いながら、けれど最大限のスピードで元来た道を引き返して行った。 ようやく視界に施設の外観が映り始めた頃、ちょうどこちらに寄ってくる人影が見えてきた。 「幸樹!お前、葵は?」 暗闇の中でも目立つオレンジ頭の持ち主は幸樹の友人であり、腕の中で弱っている葵の幼馴染でもある京介だった。雨の中、傘も差さずに息を切らしているところを見ると二人を探して居たのは明らかだった。 デートを始める頃も、こうして行方不明になった二人を皆が探すことは想定済みだった。でも葵と二人笑顔で帰ってくればいいと、そう気楽に考えていた。 けれど、幸樹の考えは甘すぎた。笑顔どころか、最低最悪の状態での帰還。

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