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act.2追憶プレリュード<137>
医師と看護師が部屋から消えてようやく京介は葵の傍に寄ることが出来た。ただでさえ白い肌が、今は血の気がなく青ざめている。
「……馬鹿」
ベッド脇の椅子に腰を下ろした京介は、眠る葵に掛けたい言葉は山ほどあったが、まず口をついて出てきたのはそれだった。布団からはみ出た小さな手を温めるように握ってやれば、僅かに握り返してくる。
「もうしないって言ったばっかじゃん。自分で言った約束ぐらい守れ、馬鹿」
昨夜悪夢を見てうなされていた葵とのやりとりを思い返して、京介はまた意識の無い葵を責めた。
出会ったときからちっとも変わらない葵。どうでもいいことでは甘えてくるのに、肝心なことでは全く頼ってこない幼馴染の厄介な性格がもどかしい。
そうしてしばらく葵の寝顔を見つめていた京介の耳に、段々と近づいてくる足音が聞こえてきた。固い靴底が地面を蹴る音ではない。ぺたぺたという独特の音に覚えがある。
「だから、なんでお前は裸足なんだよ」
ガラッと扉が開けられると共に京介は訪問者の顔を確かめもせずにそう告げる。現れたのは案の定、都古だった。
藍色の浴衣は雨に濡れてより濃い色に変色しているが、当の本人は自分の身なりなど全く気にしていない。
軽口を叩く京介のおかげで都古はすぐに葵の無事を確信したようだったが、途端に気が抜けたようで、きつくしかめた顔を歪めて今度は泣き始めた。いつも無表情の彼が今はただ、痛いほどに感情をむき出しにしている。
けれど、葵の状態を直視する勇気が出ないのか、都古は扉から一歩踏み込んだ所で足を止めて動かない。
「都古、大丈夫だから。ちゃんと生きてる」
傍若無人なはずの猫が怯える気持ちは京介もよく分かる。仕方なく傍に寄るように促してやれば、ようやく都古は一歩ずつベッドへと歩み寄ってきた。
扉からはカーテンが張られて見えなかったベッドの上の様子をようやく視界に入れた都古は、途端に膝から崩れ落ちるようにしゃがみ込んでしまった。
都古には”遊んでいて溺れた”と伝わっているはずだったが、葵のことしか頭にない彼にそれが通用するはずがない。細かい経緯は抜きにしても、葵が自ら飛び込んだことは察していたのだろう。
静かな嗚咽を漏らして泣きじゃくる都古の感情が、葵を失うという恐怖から解放された安堵なのか、それとも自分を置いて違う世界へ旅立とうとした葵に対する怒りなのか。
京介には都古の本心など分からなかったが、こんな様子を見てしまうと単純に”ライバル”だからと言って邪険には出来なかった。”お節介”だと都古に言われるたびに腹が立つが、そういう損な性格なのは仕方ない。
「お前に置いてかれたらあいつ、絶対に後追うぞ。飼い主ならちゃんと面倒見ろよ、馬鹿」
まだ深い眠りにつく葵に、京介はもう一度声を掛けた。
あいつ、といって視線を投げるのはもちろん涙をこぼし続ける都古のこと。返事は無いけれど、繋いだ手にはまた、わずかに力が込められたような気がした。
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