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act.2追憶プレリュード<151>
「あーちゃん」
葵が瞼を開くタイミングを見計らって、自分と葵との間にいたウサギのぬいぐるみを引っ張り出し、彼の眼前に差し出す。そしてあたかもウサギが話しかけているかのようにぬいぐるみを動かし、高い声音で呼びかけてみた。
「おはよう、あーちゃん」
驚いたように目を瞬かせる葵に対し、もう一度ウサギとして声を掛ける。すると、葵は目線だけウサギのブルーの瞳と絡ませながら、ふわりと笑ってくれた。
「お兄ちゃんだ」
「あれ、バレちゃった?」
ウサギをどかせて冬耶が自分の顔を覗かせれば、更に葵の笑顔が明るくなった。けれど、冬耶と目を合わせてからぐるりと視界を周囲へと移らせた葵は、笑顔はそのままに不思議そうに首を傾げてみせる。
「お兄ちゃん、なんで?ここ、どこ?」
葵の疑問に冬耶は違和感をおぼえた。まるで今日初めて冬耶に会うような言い分。今朝方一度目覚めた時のことが無かったこととされているようだ。
だからもう一度、冬耶は今朝起きた会話を繰り返す。
「あーちゃんに会いた過ぎて、来ちゃった」
葵に極力不安を感じさせないよう微笑んでみせれば、葵は今朝とは違う反応を見せてくる。
「……もしかして、また、変になっちゃった?」
「変って?そうだね、あーちゃん不足で変になりそうだった」
葵の質問の意味をあえて冬耶は取り違えてみせた。今朝は覚えていたはずの昨夜の記憶が葵の中から消えている。そう確信したからだった。
「あーちゃんは?お兄ちゃんと会えなくて寂しくなかった?」
「寂しかった!会いたかった!」
言葉と共に思い切り抱きついてくる葵の様子は無邪気だが、どこかおかしい。
こうしたことは以前にも度々あった。辛い記憶を心の奥底に仕舞い込んで鍵を掛けてしまう。葵なりの防御なのだろう。
昨夜葵が思い起こした母親との記憶も、そしてそれによりしでかした行動のことも、葵は眠っている間に封じ込めてしまった。
けれどその鍵は強固なものではなく、時折悪戯に開いては葵を更に混乱させ、苦しめるのだ。
「お兄ちゃん、手……おかしいの」
冬耶に抱きついた拍子に自身の腕の違和感に気が付いた葵がそう問いかけてくる。その口調はいつも以上に幼い。自分自身が付けた傷によるものだとはちっとも思いつかないらしい。
「すぐ良くなるよ。お兄ちゃんが手当してあげるからね」
そう言い聞かせれば、葵はそれ以上疑問を持たずにこくんと頷いてくれる。褒めるように額にキスを落とせば、くすぐったそうにまた笑ってくれた。
けれど、その笑顔は葵の抱える苦しみの裏返しだと知ってしまっている以上、切なくて仕方がない。
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