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act.2追憶プレリュード<156>
「挨拶をされなかったら、それはそれで怒るだろう、お前は」
「ちがう、僕じゃなくて。来年もあんな調子じゃ、葵ちゃん、うまくさばけないでしょ」
忍が思わず言い返せば、櫻はそんな風に訳を話してきた。
忍は来年の役員候補が現状葵しか居ないことを危惧していた。櫻もきっと忍と同様に、自分たちが卒業した後の葵のことを考えていたらしい。
「西名さん達が離れただけであれだけ取り乱したんだ。出来るだけ環境は整えて立ち去ってやりたいな」
「いざとなれば、もう一年、残ってもいいけどね」
「……本気か?」
馬鹿な発言をした櫻を睨むようにして見やれば、彼は本気とも冗談とも判断の付かない笑顔を浮かべていた。
「卒業したところで、やることもないしね。葵ちゃんと同級生やるのも楽しいかも」
やることがない、なんて嘘であることを忍は心得ている。
櫻は訳あって、月島家が経営している音楽学校には通わずこうして同等のお坊ちゃま校ではあるが音楽には特化していない学園で比較的のんびりと過ごしている。だが、そんな自由が許されるのは高等部まで。
卒業すれば、彼は月島家の正式な跡取りとしての道が定められている。きっと卒業せずに一秒でも長く学園に留まっていたい、というのは櫻の本音に違いなかった。
それが分かっていると、軽はずみな返答などできず、強がってばかりいる友人の空想に黙って付き合ってやるしか無い。
そうして別館に辿り着くと、てっきり静かだと思いこんでいた館内が何やら騒がしい。
音の発信源は1階の談話室の横にある給湯室だった。
「西名さん?何をやっているのか、聞いても?」
「おお、北条。久しぶり。あ、月島もいる。元気?」
声を掛けられた人物はいたって朗らかに笑ってみせるが、その格好がどうにもおかしい。いや、冬耶はいつでも奇抜な格好をしているのだから”おかしい”と一言で表現するのは適さないかもしれない。
綺麗に整頓されていたはずの給湯室の棚は引っ掻き回され、無残な状態。おまけに冬耶が手にしているヤカンに茶葉がめいっぱい詰め込まれていて、はみ出たものは冬耶が身につけている幾何学模様のシャツにまでこびりついている。
「お茶、淹れようと思ったんだけど、どうすればいいんだっけ?」
何でも出来る完璧超人なはずの冬耶がお茶ひとつまともに淹れることが出来ない。そんな衝撃の事実を目の当たりにしてしまった忍は、彼に掛ける言葉がすぐには思いつかなかった。
だが、隣にいる友人は違う。
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