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act.2追憶プレリュード<171>
「あーちゃん、まだ後一時間以上かかるから。眠っちゃっていいよ」
ミラー越しに葵の様子を見守っていたらしい冬耶が、まるで葵が落ち着くのを見計らったかのようにタイミング良くそう声を掛けてきた。
葵の膝の上に頭を乗せている都古はとっくに寝息を立てている。葵もそれにつられるようにゆっくりとした瞬きを繰り返していたが、やはり車内で眠るのは怖いらしい。どこかに置いて行かれる、そんなことを恐れているのだ。
「ずっと掴んでな、葵。どこも行かねぇから」
葵がまた京介のシャツの裾を握りしめ始めたことに気が付いて、京介はその手に自分の手を重ねてやる。けれど、葵はそれを嫌がるように首を横に振った。
「……きょ、ちゃん」
「あーはいはい、どうぞ、葵さん」
震える声で名を呼んでくる葵の真意もすぐに分かる。茶化すように普段はしない”さん”付けで名を呼び返して腕を広げてやれば、すぐに半身を捩った葵がぎゅっと擦り寄ってきた。
「お前、そこの猫より甘えたなんじゃねぇの」
意地の悪い言葉が口から出てしまうが、こういう子供っぽい所もたまらなく好きだ。その甘えの対象が自分である、ということも誇らしささえ感じる。
甘えん坊を指摘されてもなお、胸元に擦り寄ってくるのも可愛くて仕方ない。我慢が出来ずにさらりとした髪に指を通して、より強く葵を抱きしめ返してしまう。
「京ちゃん。たのしかった、ね」
何度か髪を梳いてやっていると段々と眠気が増してきたらしい。葵の口調が少しずつ蕩け始めてくる。
楽しい、そう葵が表現出来るような三日間ではなかったはずだ。けれど、楽しくない記憶は全て封じ込めてしまったのだから、ある意味正しいのかもしれない。
「来年も、がんばる」
気が早いと突っ込みたくなるが、一時はこの世に未練を失くすまで追い詰められた葵が、先を見据えている。その事実は単純に京介を安堵させた。
「次はお前もなんか試合出てみれば?」
「……いじわる」
葵は膨れてみせるが、それ以上は眠気に抗えなくなったのか何も言葉を発せずにコテンと力が抜けてしまった。
来年は、まだ自分と葵は”幼馴染”で”家族”のままだろうか。それとも別の関係に昇格出来ているのだろうか。
どちらにせよ、葵の傍に居るのは間違いない。
「あんまり気が長いほうじゃねぇはずなんだけどな」
葵本人にも、主人の上で心底安心したように眠る都古にも、そして口笛を吹きながら機嫌よく運転を続ける冬耶にも。誰にも聞こえないよう、京介はこっそりとそんな愚痴を零した。
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