320 / 1636
act.3君と星の世界へ<70>
「あれから十年経ちました。もうほとぼりも冷めきっていますし、良い頃でしょう?」
「何が、ですか?」
あの頃と何も変わらない妖しげな笑みを浮かべた馨。陽平の声が少しだけ震えている。怒りなのか、恐れなのか。その両方かもしれないと、冬耶は思い出の蘇る頭でぼんやりと考えた。
「そろそろ葵を返していただきたい」
凛とした声音でなされた要求に、冬耶はまたこの部屋に入った来た時と同様に目眩を感じる。
いつかこんな日が来るのではないか。どこかで感じていた不安が現実になってしまった。
京介は馨が葵を捨てたと信じ込んでいるが、あの時の馨の表情は葵に心酔しきっていた。簡単に手放すとも思えなかった。その予感通り、馨は今こうして葵を手元に戻したがっている。
「返すも何も、あの子はうちの子だ。貴方にはもう指一本触れさせない」
「では葵に聞いてみて下さい。パパとまた暮らしたいかどうか」
馨の切り返しに、陽平はとうとう堪えきれずに目の前のテーブルに拳を叩きつけた。
「聞かなくても分かってる。あの子が何を選ぶのか」
陽平は言い切ったものの、語尾が少しだけ揺れている。その理由が迷いであることは冬耶にも分かっていた。
葵とは家族として間違いなく深い絆を結んでいる自負はある。けれど、葵が馨を選ぶ可能性は無いとは言い切れなかった。それほど彼の存在は葵の中に深く刻み込まれている。
「そうですか?私は間違いなく、パパを選んでくれると思いますけどね」
馨も自身がどれほど葵に多大な影響を与えているか、確信を持っているらしい。ゆったりと脚を組み替えながらカップに口を付ける馨の仕草は優雅で、余裕さえ感じられる。
「生憎だが、葵は貴方のことなど覚えていませんよ」
馨の余裕を崩すべく陽平はそう告げたものの、彼はぴくりとも眉を動かさなかった。
「ご心配なく。スイッチさえ入れればまた元通り、私の可愛い人形に戻りますよ。そういう風に育てたんですから」
身に纏う雰囲気はまるで違うが、スーッと通った鼻筋も、形の良い唇も、長い睫毛も、馨はやはり間違いなく葵がその血を引いていると思わせるほど似通ったパーツを持っている。成長すれば葵はきっと馨のような麗しい美人になるのだろう。
「もし貴方があの時から少しでも変わっているなら、その時は葵と会わせるというのも一つの選択肢だろうと考えていました。一方的に送りつけられる小切手も、単に貴方の親心だと言うならば、葵のために受け入れることも必要かもしれない、そう思っていた」
陽平はそこまで言ってソファから腰を上げたから、冬耶も慌てて立ち上がる。
「でも、葵を未だに人形として見なす貴方の思い通りには絶対にしない。今日改めて覚悟を決めました。あの子の父親は貴方じゃない、私だ」
そう言い残した陽平は馨に背を向け、元来たエレベーターへと歩を進め始めた。これ以上話すつもりはないという意思が滲み出ている。
ともだちにシェアしよう!

