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act.3君と星の世界へ<71>

「冬耶くん、待って」 冬耶がその後を追おうとすると、馨に呼び止められてしまった。あからさまに無視するわけには行かない。振り返れば、そこには変わらぬ笑顔の馨がこちらをジッと見つめていた。 「冬耶くんにはきちんと覚えておいてほしいんだ」 「何を、ですか?」 尋ね返せば、馨の目尻が更に柔らかく垂れる。こんな表情さえ、葵を思い起こさせるのが悔しい。 「葵にはもう父親のレプリカは必要ないよ。それから、兄も、ね」 冬耶が葵の兄を名乗っていることも、馨はきっと調べ上げているのだろう。馨の言葉に肌がざわめく感覚に襲われる。 「冬耶くん、今まで葵のお兄ちゃんの代わり、頑張ってくれてありがとうね」 「……代わり?」 「冬耶、何してる」 気になるフレーズを思わず反芻すれば、もう既にエレベーターに乗り込んでいた陽平が冬耶を急かす。 冬耶はすぐにその場を離れたが、頭の中では何度も馨の言葉の裏に隠された意図を探っていた。 「なぁ父さん」 すぐ近くのパーキングに停めた車に乗り込んだ冬耶は、運転席でまだ怒りが収まらない様子の陽平に声を掛けた。 「運転、代わろうか?」 「いや、いい」 「じゃあ少し頭冷やしてから動かしてよ」 冬耶の言葉に陽平は大人しく一度掛けたエンジンを落とし、ハンドルに頭を凭れかけた。自分でもこのまま高ぶった状態で運転することは危険だと自覚していたのだろう。 ジッと呼吸を繰り返して心を落ち着けようとする陽平の姿は、彼が葵へ注ぐ愛情の深さをよく表していた。しばらくしてようやく陽平が冷静さを取り戻してきた様子を察して、冬耶は胸につかえていた疑問を口にした。 「父さん、あーちゃんって長男、だよな?」 「何言ってんだ。だから未だに”藤沢”の姓を名乗らせるしかないんだろう」 冬耶の疑問は、まだ顔を伏せたままの陽平に一蹴された。 隣家とはいえ他人である西名家が葵を引き取れたのも、当たり前のように育てられているのも、全て葵の祖父であり、馨の父親である存在のおかげだ。 けれど、その彼でさえ完全には葵を譲ってはくれなかった。それは葵が藤沢家の跡継ぎに成り得るから、だった。 冬耶が懸念するように、葵よりも先に生まれた男児が居るならば、今頃葵は正式に西名家の一員になれていたかもしれない。 「そう、だよな」 納得しようとは思うものの、最後の馨の笑みが忘れられない。葵の兄としての役割が不要だと言われれば、冬耶が動揺するのも無理はなかった。 「奴に何を言われたか知らんが……ああいう人間だ。惑わされるなよ、冬耶」 「分かってるよ」 咎めるような陽平の口調に、冬耶も思わず強く返したものの、やはり胸には不安がくすぶっている。 陽平が馨から言い渡されたように、自分も葵の兄から不必要だと言い放たれたなら。冬耶はそんな光景を想像するなり、突き刺すような悲しみと喪失感に苛まれる。 仮定の話ですらこれほどに苦しいというのに、直面した陽平の気持ちは計り知れない。 「父さん、やっぱり運転代わるよ」 二度目の提案に、陽平は何も言わず運転席から立ち退くことで返事をしてみせた。 こんな時でも一度仕事場に戻るという父親を送る道中、冬耶はいつも気丈な彼が涙を噛み殺している姿を、ただ黙って知らぬフリを突き通してやることしか出来なかった。

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