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act.3君と星の世界へ<74>
「あの夜のこと、藤沢ちゃん覚えてないんやろ?」
「ほとんどな。丸っきり忘れたってよりは、思い出さないようにしてるって感じだけど」
京介の知る限り、幸樹と何かあったことぐらいは葵もうっすら記憶を蘇らせているらしい。幸樹がちっとも顔を見せないことを訝しがった葵に一度真相を問われたが、もちろん告げられるわけがない。
葵が自ら湖に飛び込んだ行為を咎めたくて、それだけは思い出させようと昨日病院に連れ込んだが、結局先に葵が取り乱したせいで失敗に終わっている。再び葵を泣かせるよりは、このまま忘れてしまったほうがいい、京介はそう考えを改めていた。
「二人であんなにゆっくり過ごしたんは初めてで。ほんまに色々喋って。チューもして。なんかそれが全部忘れられたって……」
「ちょい待て。お前今なんつった?」
「え、何が?」
幸樹が胸の内を明かし始めたから本来なら黙って促してやるべきなのだろうが、どうしても聞き捨てならないフレーズがある。
思わず京介が睨みつければ、幸樹はすっとぼけた顔で首を傾げてくる。葵がやるならまだしも、自分よりもデカイ図体の奴にやられてもちっとも可愛げがない。
「お前、葵に手出すなっつっただろーが」
「いやいや、全然、触れるだけのチュってやつやで」
「程度の問題じゃねぇよ」
「ほな、どうせ怒られるんやったら、思いっきり舌絡めれば良かったわ」
悪びれない幸樹の様子に、京介はベッドから伸びる脚に蹴りを入れる。脛部分に踵をヒットさせれば、すぐに幸樹はベッドの上でのたうち回り始めた。
「ええやん、どうせそのチューも無かったことになってるんやし」
そのまま再びベッドの上で丸くなった幸樹がぽつりと漏らした声。それが彼の本音を一番表しているように思えた。
「なに、お前まさかそれで拗ねてんのかよ」
心配して損をした、そんな気持ちが声に表れてしまう。けれど、天井を見つめる幸樹の横顔は見たことがないほど痛々し気に歪んでいる。
「俺が一番幸せやった瞬間、あの子は死にたいほど苦しかったって。だから忘れられて。……そら、しんどいやろ」
その言葉にはさすがに京介も不用意に言い返せなくなる。
幸樹が渡した絵本も、連れて行った湖も、葵の記憶を蘇らせるアイテムだと教えてしまった。当然、あの場に居る時に葵がすでに苦しさを堪えていたことは察したのだろう。
自身の心情と葵のそれが完全に行き違っていると分かれば、辛くないはずがない。
けれど、葵のことを誰よりも理解していると自負している京介ですら、葵を思いがけず傷つけてしまうことがある。
「俺も昨日葵泣かせた」
「え、京介が?なんで」
京介が自分の罪を告白すれば、幸樹は途端に気遣わしげな目を向けてくる。それは友人に対してか、それとも葵に対してか、両方か。いずれかは分からないが、なかなか人に理解されない彼の優しさはこんな所で垣間見える。
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