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act.3君と星の世界へ<82>
* * * * * *
どのぐらいの時間が経っただろう。鍵盤を弾く指の感覚が鈍くなってきたことに気が付いた櫻は、曲の途中ではあるがぴたりと動きを止めた。
教室の壁に掛けられた時計は夕方を指し示していた。自室よりも質の良いピアノが置かれているこの音楽室にやってきたのは昼前のこと。もう数時間、夢中になっていたことに気が付き、ようやく櫻は鍵盤の蓋を下ろした。
音楽一家である月島家の定期演奏会で誰が何を演奏するかは家長である櫻の祖父が全て指定する。その曲名が告げられたのは数日前のことだった。
月島家の中では抜群の音楽センスと技術を持つ櫻に与えられたのは、祖父が特別な者にしか演奏を許さないという楽曲。
祖父が櫻を認めている証であるその行為は、嫉妬が渦巻く月島家が櫻を疎む理由をまた一つ増やすことになった。
“一体どういう手を使ってお祖父様をその気にさせたのかしら”
上品さを無理に装った口調で嫌味を告げてきた親戚の言葉を思い出す。
「はぁ……面倒くさい。上手いから選ばれたに決まってるでしょ。恨むぐらいなら練習しろっての」
櫻は誰も居ない音楽室でそう言い返してみる。だが、練習しろと言う割に、櫻は月島家の人間に練習している姿をほとんど見せたことはなかった。
努力している姿など見せず、けれど誰よりも圧倒的な実力を見せる。それが櫻なりの月島家への対抗の仕方だ。悔しそうな親戚連中の顔を見ると、ぞくりと背筋が震える感覚がする。その快感を覚えてしまえば、プライドはますます高くなる一方だ。
もうただ置くだけになっていた譜面をケースに仕舞い、音楽室から廊下へと出れば、向かいの校舎の窓に見知った姿があることに気が付いた。
「あ、猫ちゃんだ」
教室で一人、ぐったりと机に突っ伏していて顔は見えないが、この学園で朱色の紐で髪を結っている人間など一人しかいない。
連休中は補習でびっちりと予定が埋まっていると聞いたことを思い出した櫻は、つい、悪戯心が芽生え、彼の居る教室に顔を出すことに決めた。
渡り廊下を使えば、向かいの校舎まではすぐに到着する。櫻が教室を覗き見れば、やはり彼はぐったりと疲れ果てたように机に頭を預けていた。授業自体はとっくに終わっているようだが、寮に戻る気力すらないらしい。
野生の動物かと思うほど俊敏で勘の良い彼も、今は櫻が近付いても身じろぎ一つしない。
前の座席に座れば、ようやくその音でちらりと視線を上げてくるが、相手が櫻だと知っても特に言葉を発すること無くまた目を瞑ってしまう。
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