336 / 1636

act.3君と星の世界へ<86>

奈央と別れた後、冬耶はこのまま一駅分、歩いて帰ろうと言ってきた。約束通り、”デート”をしてくれるつもりなのだろう。もちろん葵もそれに同意する。 普段は日が沈む前に帰宅するのが母、紗耶香との約束なのだが、兄と一緒となれば、その門限は無効になってくれる。だから出来るだけ長く冬耶との時間が続くよう、ゆっくりと歩くことに決めた。 「そういえばあーちゃん、欲しい本あるって言ってたっけ?本屋さん、寄る?」 駅前を線路沿いに歩き始めれば、大型の本屋が見えてくる。それを先に見つけた冬耶が、些細な会話を思い出して寄り道を提案してくれた。 葵の欲しい本は、洋書のコーナーに行けばすぐに見つかった。 英国出身の男性が出した最新の詩集。彼の作品は間接的な表現や比喩が多く、幻想的な世界を繊細に描き出している。それを更に彩るのは彼自身が入れる水彩画の挿絵。 「きれい……すごく」 今回の本もそうだった。手にとって数ページめくるだけで一気に世界に引き込まれてしまう。つい時を忘れて見惚れていると、隣にいた冬耶が手を差し伸べてきた。 「あーちゃん、欲しいのってそれ?買ってくるよ」 「え、いいよ、自分で買う」 基本的には葵は物欲がない。それに家族といえど、西名家の両親からお小遣いを貰うのはどうしても気が引けて、本当に必要なものがあった時だけお願いすることにしていた。 だから趣味や遊びに行くときの費用は、長期休みの間、遥の父親がやっているカフェで仕事を手伝った際に貰うバイト代の貯金を切り崩すようにしている。ほぼ使うことがないのだから、詩集一冊ぐらいもちろん買うことが出来る。 でも葵が遠慮すればするほど、冬耶をムキにさせてしまう。冬耶と居る時は、絶対に一円たりとも出させてもらえないのだ。 結局レジに向かってしまった兄の背中を見送りながら、一緒に本屋に来たのは失敗だったかも、と反省する。まるでねだっているように思われてしまったかもしれない。それが気がかりだった。 「良いお兄さん、だね」 混雑したレジの最後尾に冬耶が並ぶなり、背後から声を掛けられた。振り返ると、ダークブラウンのサングラスを掛けた男が葵を見つめている。 それはあの時、葵に声を掛け、西名家を”偽物の家族”と詰った男に違いなかった。慌てて逃げようとするが、いつのまにか腕を捕まれ、そしてずるずるとレジからの死角になる棚の影へと引きずり込まれてしまう。

ともだちにシェアしよう!