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act.3君と星の世界へ<102>
「……ごめんね」
「謝らないで。どうしていつも惨めにさせるの」
「そんなつもりはないよ、落ち着いて」
とうとう堪えきれなくなったのか、加南子の瞳から涙が溢れてしまう。けれど、その涙を拭ってやりたいとも、抱きしめたいとも思えないのだから、自分の冷徹な一面に奈央はただ驚かされる。
「奈央みたいな人と婚約だなんて、皆羨ましがるわ。名家の子女が親の思惑のせいで随分と年上だったり、見目が良くなかったり、そんな人と婚約させられるなんてザラだもの」
今度はいじけたように加南子が言葉を紡ぎ出す。ただそれを聞いてやるしかない。黙って先を促せば、加南子はまたヒステリーを起こして奈央に携帯を投げつけてきた。
「でも私だってちっとも幸せじゃない。自分ばかり不幸だと思わないで。絶対に解放なんてしてあげないから」
少女の投げる力などたかが知れている。奈央があっさりと携帯を受け止めると、更に強く唇が噛み締められるのが見えた。そして悔しげに部屋を立ち去ってしまう。彼女がああして涙目で飛び出して来たのを両親は見咎めて、後できっと非難されるに違いない。
長時間居座られたせいで、部屋には不自然な程甘ったるい桃の香りが残っている。彼女がいつも身に纏っているフレグランスだ。そのせいでいつしかこの果実の香りが苦手になっていた。
今夜この香りに包まれて眠ることなんて出来やしない。奈央は仕方なく、少ない荷物をまとめて自分も寮へと帰る支度を始めた。寮生活を主軸にし始めてから、この部屋には極力物を置かないようにしている。あっという間に私物をキャンバスバッグに詰め終えた奈央は、見咎められないよう静かに階下へと移動した。
「……戻るのか」
玄関でそっと靴紐を結んでいると、奈央の努力も虚しく背後から父の声がした。加南子を泣かせたばかりだからきっと今から長い説教が始まるのだろう。脱出の失敗を悟った奈央は諦めたように手を止め、そして父を振り返った。
だが、奈央の予想に反して父親の表情に怒りの色は見えない。それどころかむしろ珍しく眉間の皺が緩んでいた。
「加南子さんを見送らなかったことは褒められないが……良くやった、奈央」
何事にも妥協を許さない父から労いの言葉を掛けられた記憶などない。それも予想だにしない場面でなされたのだから、奈央が訝しがりたくなるのも無理はなかった。
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