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act.3君と星の世界へ<103>
「さっき加南子さんが婚約の発表を早めたいと言ってきたよ。正式に発表出来れば貫井と我が社との関係も確固たるものになる。他とどれだけ差が付けられるか」
ほくそ笑む父の言葉に、こめかみが痛みを訴え始めた。加南子はいたいけな少女ではない。強かで狡猾だ。解放しないという宣言通り、奈央の逃げ道を着実に潰しにかかってくる。
「発表の時期はまた両家で話し合おう。その時は早めに連絡を入れるから、今度はきちんと生徒会の都合も付けて来なさい」
いつも奈央の予定など気にしたこともないと言うのに、気遣う言葉さえ掛けてくるとは、余程機嫌が良いらしい。婚約者候補が複数居る状態の加南子が、正式に奈央を指名したとあれば、父が舞い上がるのも当然だろう。
けれど彼とは裏腹に奈央は冷えたものがじわじわと体を蝕んでくる感覚に襲われる。数時間前あれほど温かな幸せに浸っていたというのに、今はもうそれすら遠い過去の記憶のように霞んでいた。
顔色が悪い、と不安げに声を掛けてくる家政婦を振り切って、奈央は家を抜け出した。
夜も更け始めている時間帯に唐突にお抱えの運転手を呼び出すほど、奈央は非常識にはなりきれないし、大通りに出てタクシーを捕まえるだけの冷静さは残っていた。
だが、学園寮までの道のりではただひたすら、加南子と、そして父の言葉が頭の中で繰り返される。だからかなり大きな声で運転手に呼びかけられるまで、奈央は目的地へと到着したことに気が付くことが出来なかった。
連休中でたださえ人の少ない寮は、時間帯も相まって不自然なほど静まり返っている。しかし生徒会専用のフロアに上がれば、断片的にではあるが廊下の先から柔らかな弦楽器の音色が静寂の風に乗って流れてきた。
音の主はピアノだけでなく、ヴァイオリンも得意とする友人だろう。普段は自由奔放で高飛車な彼も、一度楽器を手にすれば、繊細な内面を素直に音に乗せてくる。その物哀しくも美しい旋律に耳を傾けていれば、少しだけかき乱された気持ちが落ち着きを取り戻してきた。
自室に戻ってソファに腰掛けるとすぐに訪問者を告げるノックの音が部屋に響いた。ヴァイオリンの音色はまだ聞こえてくる。となれば、このフロアに居る人間は一人しかいなかった。
「忍?どうしたの、珍しい」
扉を開ければそこには居たのはやはり忍だった。いつもきっちりとした服装を好む彼が、寝間着に薄いガウンを羽織った姿で出歩くなど滅多に無いことだ。だから奈央がそれを指摘すれば、彼は少し困ったように奈央に視線を向けてくる。
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