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act.3君と星の世界へ<112>

「少しお喋りをしすぎたね。もう下がりなさい」 馨はソファではなく、自分のデスクに向かい始めた。気分がすぐに変わる彼はもう、椿にも穂高にも興味を失くしたようだ。デスクに着いた馨がパソコンのモニターに光を灯したのを見て先に動いたのは穂高だった。 「……失礼いたします、馨様」 もう返事すらする気のない馨に深く頭を垂れると、穂高は椿に目もくれず部屋と外部とをつなぐエレベーターに乗り込んだ。しかし椿もすぐにその後を追ってくる。馨には何も声を掛けずにやってきた彼は、扉が閉まり馨の姿見えなくなると無表情を崩さない穂高の名を呼んだ。 「なぁ穂高」 「あなたにそう呼ばれる筋合いはありません」 エレベーター上部のディスプレイに目を向けながら、穂高は椿を冷たくあしらう。それを受けて椿は少しムッとした様子を見せた。 「確かに俺のほうが年下だけど、藤沢家の人間だよ?一応。もうちょっと敬意を払ってくれてもいいんじゃない?」 「ご自分で仰ったんでしょう。私が仕えるのは葵お坊ちゃま、ただお一人ですから」 「もう十年以上会ってない相手に、ね。まともそうに見えて、あんたも馨さんみたいに頭のネジ飛んじゃってるよな」 椿は随分ストレートに穂高を侮辱するが、穂高は全く気にも留めない様子で涼し気な表情を崩さない。奔放な社長、馨のフォローを行っている時の穂高は人当たりの良い笑顔を崩さずどこへ行っても穏やかに見られがちだが、椿の指摘する通り、実際の所穂高は有能な秘書を演じているだけに過ぎない。 「目的は同じなんだから、仲良くしようよ秋吉さん」 呼び名を変えても、穂高は椿を見ようともしない。だが、エレベーターが目的の階に到着し、二人して箱を降りるとようやく穂高は椿に向き直った。 「あなたの想いと同等だと思わないで頂きたい、篠田さん」 藤沢家の一員であることを否定するかのように椿の名字を告げるあたり、穂高が椿に仕える気が微塵もないのは明らかだ。駐車場へと繋がる扉を開けて姿を消した穂高を見送りながら、椿は一つ、溜息をつく。 「葵をあいつに渡したくないんでしょ?」 返答などないのは分かりきっていたが、椿は穂高に問いかけた。だが、回答する人物の姿がないのだから、やはり空虚な沈黙だけがその場を支配している。 「葵は気楽なもんだよね。馨も穂高も、そして俺も、全部忘れてるんだから」 やり場のない怒りをぶつけるのは、皆がそれぞれの思いを寄せる存在。愛らしく、そして憎らしい。 椿が一枚だけ持ち出してきてしまった写真には、椿の気持ちとは裏腹に完璧な微笑を携える幼少期の葵が映っていた。それを眺めていると、無条件で可愛がってやりたいような、ぐちゃぐちゃに壊してしまいたくなるような、相反した気持ちが芽生えてきて狂おしくなる。 「さて……明日はどこに行くのかな?」 次に椿が語りかけるのは穂高ではなく、写真の向こうの葵だ。仕立の良いシャツの胸ポケットからサングラスを取り出し顔を隠すように身につけた椿は、馨によく似た微笑みを携え歩き出した

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