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act.4哀婉ドール<6>
「ちょっと顔出してみます」
「おう、行っといで」
熊谷の呑気な声に見送られ葵が次に向かったのは、一ノ瀬が拠点としている生物準備室だった。一ノ瀬はあまり生徒とも、同僚の教師とも接触することなく、職員室よりも生物室の隣にある準備室に篭っていることが多い。そのぐらいのことは葵も知っていた。
実験室が連なるスペースは一般教室や職員室が並ぶ棟よりも更にシンと静まり返っている。どこか不気味ささえ感じてしまうが、怖がることはない。そう言い聞かせて、準備室の前へと足を進めた。
「……ふ、藤沢、くん?」
ノックをしよう、そう思って手を伸ばした瞬間、背後から声を掛けられて葵は思わずビクリと体を跳ねさせた。振り返ればそこには目的の人物、一ノ瀬が葵よりも驚いた顔をして立っている。
一ノ瀬は無造作に伸びた黒髪と無精髭のせいで年齢は不詳だが、まだ二十代らしいと噂されている。野暮ったい黒縁眼鏡も彼の顔を見えにくくさせているが、確かにそれほど年を取ってはいないように思えた。
「どうしたの?家に帰ってたはずじゃ」
「今日は補習の付き添いで来てて……」
一生徒である葵の予定を把握しているような口ぶりには違和感を覚えなくもないが、葵は素直に一ノ瀬の問いに答えた。
「あの、歓迎会でのこと、ちゃんと先生にお礼言えてなくて。すみませんでした」
「お礼?何のこと?」
「風邪引いちゃうって、着替え手伝って下さったから」
「……あぁ」
葵が詳しく状況を説明すれば、一ノ瀬はどこか熱っぽい溜息を零した。その時の事を思い出したらしい。まるであの時の再現とばかりに、白衣を身に纏った青白い手を伸ばしてくる。
「そうだ、こうして……」
「先生?え、あの」
「やっぱり体調崩しちゃったんだよね。ちゃんと脱がせてあげればよかったね」
今葵が身に纏っているのは制服ではなくお気に入りのギンガムチェックのシャツ。そのボタンに指を掛けられて葵は思わずその手を掴んでしまうが、一ノ瀬は全く気にしない素振りでぷちぷちと外す動作を続けてくる。
あの時はびしょ濡れだったから脱がされるのも分かるが、今は明らかに異常だ。そのぐらい葵でも判断できる。
「私服も可愛い、けど……制服が好き、だな」
「あの、先生すみません、帰ります」
得体の知れない不安が込み上げてきてそう告げた葵は、一ノ瀬の顔を見ずに走り出した。一ノ瀬は葵を引き止めもせず、何も声を掛けてこない。それが余計に不思議だったが、寮に戻るために校舎を飛び出すまで足を止めることは出来なかった。
校舎を出て寮への道中にある中庭まで辿り着いてようやく速度を緩めた葵は、ちらりと後ろを振り返ってみる。だがやはりそこには平穏な学園の風景が広がっているだけ。一ノ瀬の姿も無い。
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