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act.4哀婉ドール<24>
「まぁいいや。知ってるよ。どうせ猫ちゃんが勝ったでしょ?」
「そう、みたいですけど……」
「何、助けてほしかったの?」
歯切れの悪い葵の顔を覗き込めば、何とも言えない視線が返ってくる。
だから櫻は自身の手を葵にかざしてみせた。全身の身だしなみには日頃から気を遣っているが、特に手は桁違いに大事にしている。その甲斐あって、芸術品と言えるぐらい指、爪、肌、全てが完璧だと自画自賛したくなるほど美しい。
「見て、この手。これで喧嘩に混ざれなんて言うわけ?」
学生とはいえ、既にピアニストとして仕事を受けている立場としては商売道具の手に何かあってはいけない。傷が付く可能性を嫌がって書類整理すら避けているぐらいだ。野蛮な生徒の喧嘩になど巻き込まれたくない。
「違います、そうじゃなくて……先生呼ぶ、とか」
「僕が教師呼ぶの?そしたら猫ちゃんが処分受けることになるよ?せっかく穏便に処理してやったのに。感謝されてもいいぐらいなんだけど」
どうしても都古の喧嘩を止めてほしかったらしい葵の頬をまた抓めば、シュンと顔を伏せてしまった。葵の言いたいことがさっぱり分からない。何となく葵が登校してきた理由が都古の喧嘩を心配したものだということは理解できたが、それでもノートを落とすことには繋がらない。
「……そういえば猫ちゃんの補習って何時に終わるの?」
「多分五時くらいだと思います」
「そう、じゃあ結構時間あるね。どこか行こうか」
不毛な会話を続けるほど辛抱強くはない。それよりも不意に訪れた二人きりの時間を最大限楽しむほうが得策だ。櫻がストレートにデートへ誘えば、葵は即答せずに戸惑った様子を見せてくる。
「外に出ないんだったらベッドに連れ込むけどそれでも良い?健全なデートと不健全なデート、どっちが良いの?」
どうせ葵は櫻の与えた選択肢の真意など分からないのだろうが、それでも選ばせてやるだけ優しいと思ってほしい。密室に二人で居るというのに押し倒さないのだからむしろ既に誰かに褒め称えられても良いぐらいの気分である。
「健全なほう、で」
「最初から言うこと聞けばいいのに。時間の無駄でしょう?」
「……ごめんなさい」
自分の理不尽な責めに素直に謝る姿が堪らなく櫻を煽る。葵は都古を猫だと可愛がっているが、そんな葵のほうがよっぽど子猫のようで愛らしいと櫻は思う。
それでも葵は都古が途中で帰ってきたら、なんて余計なことを心配してくるから、出掛けることや寮には戻らず櫻が直接家まで送ることを伝えるメモを強引にテーブルの上に置いて葵の抵抗を封じ込めた。緊急連絡用として櫻の携帯番号を記載しておいてやるのは後でまた都古に恨まれるのが面倒だからだ。
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