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act.4哀婉ドール<59>
個室を出れば、すぐそこに櫻が立っていた。電話をしている表情は険しかったが、葵がシャツの染みを見せれば一瞬表情を緩め、化粧室の場所を指し示してくれた。
化粧室は一瞬女性用の部屋に入ってしまったのかと思うほど可愛らしい内装をしていた。さっきまで葵が居た個室といい、店全体がそうした雰囲気で統一されているらしい。
葵は二つ並ぶ洗面台のうちの一つを選んで金色の蛇口をひねり、さっそくシャツに付いた染みに通そうとするが、胸に近い部分にはなかなか届きそうもない。より身を屈め、シャツの裾を引っ張ることに夢中になっていた葵が、あと少しで届くと気を抜いたときだった。
不意に後ろから体を抱きすくめられる感覚に襲われた。
「櫻先輩?」
こんなことをするのは櫻しか居ない。だから確信を持って顔を上げ、正面の鏡を見た葵はその意外な犯人に一気に視界が揺さぶられる。勢い良く流れる水の音も、キーンと頭に響き始めた耳鳴りにかき消された。
「また、会えたね」
そう言って笑ったのはあのサングラスの男だった。
────怖い、怖い、怖い。逃げなくちゃ。
どうして彼がここに居るか、彼はそもそも誰なのか。そんなことはどうでもいい。とにかく本能的にこの場から逃げ出すことを選択した葵は、彼の手を払い、化粧室の外へと繋がる扉の取手に手を掛けようとした。
だが、案外簡単に振り払えたと思った手は、また葵を追いかけ、そして再び腕の中に閉じ込めてくる。
「離して、ください」
「どうして?また今度ゆっくり話そうって、そう言わなかったっけ?」
確かに昨日本屋で会った際、そう告げられた。だが葵自身は彼と約束を交わした覚えはない。
「先輩が待ってるから」
「月島櫻?」
先輩、としか葵は発しなかったのに、彼は櫻のフルネームを簡単に告げてみせた。どうして知っているのか。もしかして知り合いなのだろうか。気になる気持ちを抑えられない葵はつい、後ろを振り返る。
「櫻先輩のこと、知ってるんですか?」
「葵のことなら何でも知ってるよ。だから葵の周りのこともよーく調べあげてる。きっと葵以上に詳しいよ」
不敵に歪む口元を見れば、その言葉は大げさでも何でもないことは予感させられる。そして男は櫻の事を知っていると証明するかのごとく、プロフィールを葵に語り始めた。
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