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act.4哀婉ドール<60>

「あの有名な音楽一家、月島家当主の長男の息子。でも正妻の息子じゃなくて愛人の子供なんだって。葵、知ってた?知らなかったでしょ」 そこまで言って彼は個室のひとつへと葵を引っ張り込む動きを見せた。話の内容は確かに葵の知らない事実だったが、それでもこれから更に聞いてはいけない情報が告げられる予感がして、葵は必死に逃げようとする。だが、とても力では敵わない。 簡単に個室に引き込まれ、そして鍵が閉められた。 「月島櫻の母親は、それはもう大層な美貌の持ち主だったらしい。その容姿を活かして月島家に近付いた女は、財産目的に、そしてあわよくば本妻にのし上がるために、彼の父と寝たんだって。いわゆる愛人、ってやつだね」 「やめて、聞きたくない」 体を抱きすくめられて耳元で囁かれれば、逃げようがない。だから葵はひたすら男の声をかき消すように拒絶の言葉を繰り返す事しか出来ない。けれど、それを気にも留めず、ただ櫻の家の事情を暴き立ててくる。 「でね、それに気が付いた本妻が、愛人と揉めて傷害事件にまで発展したんだ。傷害、というよりも、殺人未遂に近い状況だったらしいけどね。すごいよねぇ、どこかにこんなドラマ、有りそう」 面白がるように、そして馬鹿にしたように語られることが事実かどうかは葵には分からない。でも間違いなく分かるのは、こんな話をされていると櫻が知ればきっと傷つくだろうということ。 櫻の気持ちを考えて泣きたくなるのを必死にこらえながら、葵は男の腕から何とか逃げる方法がないかを考える。 「その事件が起こってから、当主は愛人とその息子を家から追い出そうとしたんだ。当然だよね。由緒ある家柄だからこんなスキャンダルはあってはならない」 「お願い、やめて」 「でも可哀想な少年には音楽の才能が月島家のどの子供達よりも秀でて受け継がれてしまった。だから月島家に残されることになったんだよ。正妻の息子、として。皮肉だよね、実母を殺そうとした女の息子として生きていかなきゃいけないなんて」 聞いてはいけない。聞きたくない。声でかき消せないのなら、耳を塞いでしまおう。そう考えて伸ばした両手は手首をきつく握られ、扉に叩きつけられた。 「……ッ」 「でも彼が一番憎いのは自分をこんな境遇に残した実の母親だろうね。一族の誰もが卑しい出生の彼を冷たい目で見てるんだ。でも彼の演奏にもあの容姿にも敵わない。気難しい当主の爺さんも今じゃ彼が一番のお気に入り。それが余計に彼への嫉妬を煽って、一族からの蔑みは更に激しくなる。悪循環だよね」 男の語る情報が真実ならば、櫻がほとんど実家に帰らない理由が分かる。たまにピアノの演奏を聴かせてくれる時もどこか物哀しい表情を浮かべているのが気になっていた。ついさっき”疎まれることに慣れている”と悲しげに笑ったことも納得がいってしまう。 でも、それはこうして第三者から面白半分に語られて葵が知るべき事ではない。

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