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act.4哀婉ドール<77>
「歓迎会の続きは夜に取っておくよ。お楽しみは後に残すタイプなんだ」
「……夜?」
「泊まっていくだろう?今度は、逃がさないからな」
忍が指摘しているのも歓迎会のことだろう。一時は混乱していた歓迎会の記憶も、時間を置くと最後の夜の出来事を除いてしっかりと思い出せていた。あのバラ園で夜の密会を約束させられたことも、もちろん記憶に残っている。そしてその約束を果たせなかったことも。
「期待しているよ、葵」
不敵に笑う忍はまた葵を振り返ると、そう言って身を屈め、葵にそっと口付けてきた。深いものではなく、優しく一度啄むだけのもの。でもそれでも十分に葵の体をさざめかせた。
帰りたくないと言ったのは他の誰でもない、葵だ。そしてそんな突然の願いを忍は受け入れてくれた。だから葵が夜に何が待っているかを恐れてここから逃げ出す権利もないし、逃げた所で行く宛もない。
そう、家に帰る、当たり前の事がすっかり怖くなっていた。
西名家の家族と過ごした十年はたった一言で崩れるようなものではない。頭では分かっていても、言いようのない不安が襲ってくるのだ。
陽平、紗耶香、冬耶、京介。皆が恋しくて仕方がないのに、もし”おかえり”と迎え入れてもらえなかったなら。想像しただけで絶望の淵に立たされる。
そして、逆のパターンも有り得る。もしあの男の言葉がちっとも真実でなかったのなら。少しでも惑わされた葵を、あの優しい家族は幻滅するかもしれない。それこそ深い溝を自らの手で作り出す結果となってしまう。
どちらにせよ、葵は追い詰められていた。
でも何も事情を話せていないというのに、指先を震わせる葵の怯えをも、忍は見透かしているらしい。
「葵、お前がここに泊まるのは、俺が引き止めて帰らせなかったせいだ。他に理由はない。だからお前は気に病むな。それでいいだろう?」
やはり彼には敵わない。学園のキングにふさわしい物言いだけれど、そこには葵への思いやりが込められている。葵の戸惑いも、迷いも、全て包み込むように、ただ指示を与えてくれる。余計な事は考えなくて済むように。
家に帰りたくなかったからじゃない。忍が泊まっていいと言ってくれたから、だから今日は帰らない。卑怯な言い訳だと思うが、今はその申し出が胸に染みるほど温かい。
いつもなら自分の子供っぽさが恥ずかしくなって彼のそうした配慮に意地を張ってしまうのだが、今は強がるには少し心がぐらつきすぎていた。だから葵は彼に甘えるように頷きを返してしまう。
「そう、それでいい」
それを見た忍が繋いだ手をそのままに胸に抱きとめてくれるから、それにすら素直に身を任せる。
柔らかなニットに頬を寄せて、そこからほんのりと漂う彼の香りを吸い込む。何故か胸が切なくなって、そして少しだけ涙が溢れてしまうのはもう自分の意思では止められそうもなかった。
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