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act.4哀婉ドール<88>

* * * * * * 葵が自室に居る。それだけで心が弾むというのに、忍の期待をよそに葵は今真剣な顔をしてウォールナット材の木目が美しいローテーブルに向かっていた。 実家に用があると言って櫻が北条家を立ち去り、恵美も気を遣って離れてくれた。多くは望まないが二人きりになったのだから、会話ぐらいは楽しみたかったのだが、葵からねだられたのは宿題を見てやること。 特に試験前はこうして忍が葵の勉強を見ることはよくあったのだが、まさか家でまで勉強会が開かれるとは思わなかった。そもそも、何故葵が鞄に化学の問題集とノートを突っ込んでいたのかも疑問である。 でもそれが例え勉強であれ、好きな子に必要とされるのは嫌な気はしない。 手を繋げばはにかむし、キスをすれば照れる。全く意識されていないわけではないだろう。忍は葵のペースに合わせてゆっくりと関係を深めていく覚悟は出来ていた。 恋愛ごとでは百戦錬磨、負け知らずだった少し前までの忍からすれば、随分とぬるくなったものである。 「葵?どうした」 ヒントを与えながら何問か解かせているうちに、段々と葵の瞳に涙が滲むのが見えて、忍は思わず声を掛けた。 「帰りたくなったか?」 思い当たる理由を口にすれば、葵は小さく首を横に振って溜まりかけた涙を拭ってみせた。そしてまた無言でノートに向かおうとする。葵の意地を尊重してやるべきなのかとも考えたが、泣かれているのを無視は出来ない。 「ここに泊まると連絡は入れているのか?心配を掛けているだろう。話しにくいなら親御さんには俺から説明してやる」 「大丈夫、です」 葵が西名家で暮らしていることは奈央から伝え聞いてはいた。だが詳しい事情は当然知らされていない。隣家に本当の家族が居る状態で、西名家で生活しているのか、それとも葵の家族は存在しないのか。それすら分からない。 だから忍は無知のフリをして葵に無難な提案してみたのだが、やはり頑なに拒まれてしまった。 「では、西名さんには?お前と出掛けるには西名さんの許可が必要なんだろう?後で恨まれるのは御免だからな」 冬耶の名を出せば葵の体がぴくりと震え、そして手にしていたペンが机に落とされた。 葵を溺愛しきっているあの男が葵に危害を加えるわけがない。傷つける言葉を投げるわけもない。それは冬耶を苦手とする忍でも確かに言いきれることだ。だから葵がこんな反応を見せる理由すら思い当たらない。

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