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act.4哀婉ドール<106>
「とにかく髪を乾かせ。風邪を引かせたら怒られるのは俺だ」
誰に怒られることを嫌がっているのか、葵でも予想はつく。夕方電話で会話をした冬耶のことを言いたいのだろう。
強引に椅子に座らされ、コードを繋いだドライヤーを手渡されたが、そのスイッチを入れる勇気が出ない。
「どうした?」
「……乾かすの、下手で」
「上手いも下手もないだろう」
忍の言うことはもっともだ。葵も自分一人で髪をまともに乾かせないのは馬鹿らしいと思う。でもどうしても熱風が当たると母親の顔を思い出すのだ。熱いと嫌がっても顔を背けることも手で庇うことも許されなかった。
けれど、そういえば、と葵はぼんやりと記憶を蘇らせる。葵よりもずっと大きな手が、時折その風を遮ってくれた光景が思い浮かんだのだ。あれは誰の手だっただろう。もう少しでその手の先の姿が見えそうなのだが、それ以上はどうしても辿れない。
「いつもはどうしているんだ?」
「京ちゃんとかお兄ちゃんが乾かしてくれて。あとは、タオルで乾かすだけにしたり……」
「あぁ、お前の寝癖が酷い日はそういう時だな?」
正直に告白すれば、忍からは少し呆れたような苦笑いが返ってきた。そして葵の手からドライヤーを奪い返すと、葵へと構えてくる。
「仕方ない、乾かしてやろう。全く、こうして誰かの髪を乾かしてやる日が来るなんて思いもしなかったよ」
「ごめんなさい。大丈夫です、タオルだけで」
葵だって学園のキングとして崇められている忍の手を煩わせるのは心苦しい。だから慌てて忍の手をかわそうとしたのだが、なぜか機嫌の良さそうな忍はこんなことを言ってきた。
「構わない。もしお前と暮らしたらこれが日常になるんだ。予行演習だと思えばいい」
忍と暮らす。そんな未来を思い描いたことがなくてどきりとさせられた。誰かと生活を共にすることがどれほど大きな事か知っている葵は、忍が自分との暮らしを想像している、その事実だけでじんわりと胸が熱くなる。
忍の中で自分は共に暮らしてもいいと思えるほどの存在になれているのだろうか。そう考えたら嬉しくてたまらない。
だからもう何も言い返せなくて、葵は忍の手を受け入れるように目を瞑った。親しんだ手以外に身を委ねることに不安がないと言えば嘘になるが、忍が葵に危害を加えることはないと信じられる。
そんな葵の様子を合図に温かな風が葵の頬を掠め始めた。
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