468 / 1393

act.4哀婉ドール<107>

「……そうか、これを下手というのかもしれないな」 葵の髪に指を通しながら、忍がつい先程の自分の発言をやんわりと覆してくる。確かに葵の世話をし慣れた京介や冬耶の手に比べれば忍の手はどこかぎこちない。 けれど、葵の細い髪を丁寧に梳く仕草は心地良い。余裕のある表情ばかり見せる彼が、今は真剣にドライヤーと格闘している所が新鮮でもある。 「次までには必ず上手くなるよ」 「あ、いえ、次はちゃんと自分で出来るように練習します」 葵の髪を乾かし終えた忍が悔しそうに額にキスを送ってくるから、葵は慌ててもう二度と彼に面倒を掛けないと誓ってみせる。 「ダメだ、お前は一生出来なくて構わない。俺がする」 「……そんな」 完璧主義な彼のことだから、出来ない事があるというのが許せないのだろう。だが、あまりに大袈裟だ。葵の髪を乾かす、たかがその行為ぐらいでムキになる姿も珍しく思えるが、呑気に頷くことは出来ない。 「西名さんがお前の面倒を見たがる理由が分かった気がするよ」 どこか嬉しそうな忍に今度はしっかりと抱き締められて乾かしたばかりの髪にキスを落とされる。 「ちゃんと自立しなきゃとは思ってるんです。でもつい、甘えちゃって」 「西名さんへの甘えは卒業して、俺にしろ、葵」 それでは何の解決にもならない。そう思うのだが、まるで生徒会の仕事を与えるように簡単に言いのける忍への反論が浮かばない。 「葵、外して」 ジッと忍の瞳を見つめ返せば、彼からは新たな命令が下された。何を、と聞かなくても分かる。彼の掛けているノンフレームの眼鏡のことだろう。そしてそれを外せば何をされるのかも予想がつく。 スタンドライトが柔らかなオレンジ色に染める室内には、アシッドジャズの音色が微かに流れているだけ。傍に居る忍の吐息もしっかりと聞こえる。 「……葵?」 焦れたようにもう一度名を呼ばれた。そこにはどこか抗いがたい強さが込められている。 だから熱っぽく震える手でそっとフレームに手を掛ける。傷付けないようゆっくりと外せば、彼の素顔が現れた。 単純な黒ではなく、グレーがかった瞳。初めて出会った時はその色味がどこか冷たいように思えてしまったけれど、彼の優しさに触れてしまえば温かく感じられるのが不思議だ。 眼鏡の置き場に困ってそっと両手で抱えたままでいると、忍がじっくりと距離を詰めてくる。 「あの、これ……」 「持っていて、終わるまで」 何が、と問う前に唇が重ねられた。眼鏡を壊さないようにしながらでは、忍の体を押し返すことも、逃げることも出来ない。直接拘束されているわけではないのに、簡単に身動きを封じられてしまった。 立ったまま身を屈めてくる忍からのキスを受け止めるには、椅子に座る葵が上を向かなければならない。顎をクイと引き上げられて、より深く唇を啄まれる。 「……んッ」 溢れる吐息が、シルクの生地越しに忍の手が背中を引き寄せてくる感触によるものなのか、それともロクに抵抗が出来ない葵の腔内に侵入してきた彼の舌の熱さによるものなのかは分からない。 ただ分かるのは、このキスを続けてしまえば、きっと危ない夜が待っているということ。そのぐらいは学習していた。でも葵には、苦しませることなくただ優しく犯す巧みな口付けに身を任す以外の選択肢は与えられなかった。

ともだちにシェアしよう!