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act.5三日月サプリ<45>
「奈央さま」
振り向かなくても声の主はすぐに分かる。自分のことをそうして率先して呼ぶのは彼ぐらいだ。
振り返ればやはりそこには奈央のファンを名乗る未里が居た。
奈央は至って普通に振る舞っているはずなのだが、彼がこうして崇拝してくるおかげで、他の生徒まで”奈央さま”と呼んでくることがある。居心地が悪くていくら呼ばれても慣れることがない。
「お手伝いします!これと差し替えればいいってことですか?」
「あぁ、うん。でも大した量ないし、大丈夫だよ」
やんわりと彼の申し出を断ってみせたが、ちっとも通じない。奈央が置いたプリントの束を勝手に持ち上げ、指示を待つようにきらきらとした目を向けてくる。
「奈央さまは王子様だから、こんな作業は未里が全部代わりにします」
未里からは悪気などちっとも感じられない。でも”こんな作業”、そう表現されるのは心外で思わずぴくりと肩が震えた。生徒会の仕事には誇りを持って取り組んでいるし、丁寧にこなしていきたいとも思っている。
応援してくれていると思っていたのだが、彼は自分の理想像に奈央を当てはめたいだけなのだろう。
「生徒会の仕事は僕が好きでやっていることだから」
「はい、知ってます。奈央さまのそういう所が大好きなんです」
自分なりに少し棘のある口調になったと思ったのだが、未里には通じないらしい。うっとりとこちらを見つめてくる彼の想いが強すぎる。
彼の申し出を断ってやりとりを長引かせるよりも、素直に仕事を与えて立ち去ってもらったほうが賢いのかもしれない。
「……じゃあ福田くんは校舎の北館、お願いしてもいい?」
「はい、もちろんです」
奈央の手助けが出来るというそれだけで彼は幸せだという。けれどその一方的な愛情は奈央には息苦しいだけ。奈央がどういう気持ちになっているか、きっと未里は一度でも考えてくれたことはないだろう。
意気揚々と去っていく未里の後ろ姿を見ながら、奈央は深く息を吐く。
未里といい加南子といい、どうして奈央の周りには自分の感情を押し付けることしか知らない人ばかりが集まるのだろうか。奈央はただ穏やかな生活を送りたいだけなのに周りは放っておいてくれない。
四月の行事が並ぶプリントを剥がし、五月のものへと差し替える。その作業を繰り返しながら思い浮かべるのは、葵の存在。
入学式や始業式、学力テスト。そして新入生歓迎会。四月の行事を貼り出しながら葵と交わした会話は今でもしっかりと覚えている。
背が低いせいで高いところに手が届かず、懸命に背伸びをしていた愛らしい姿も。代わりに奈央が手を伸ばした拍子に触れた手の温もりも。鮮やかに記憶に残っていた。
プラネタリウムで繋いだ小指の華奢な感触も、事あるごとに思い出してしまう。
笑顔を浮かべれば胸が温かくなって、泣き顔は奈央を切なくさせる。こんな風に感情が揺さぶられるのは何故か。もう抗えない所まで来てしまっている。
でも気付いてはいけない。
奈央は湧き上がる想いを振り払うように一度首を振ると、仕事を続けるために人気のない校舎を進み始めた。
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