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act.5三日月サプリ<139>

「まだ居たの、奈央」 呆れたような声が降ってきて始めて奈央は目の前に現れた人物の存在に気が付いた。顔を上げればそこにいたのは、先程別れたはずの櫻。鞄だけ部屋に置いて戻ってきただけのようで、着替えもせず、手ぶらのまま。 「櫻こそ、どうしたの?」 「……購買行く途中」 櫻は平静を装っていつも通りツンとした口調で返してくるが、その手には財布が見当たらない。シルエットが崩れるからとポケットに物を入れることを極力避けるタイプであることは奈央も承知しているし、そもそも寮の購買で物を買うところなど見掛けたことがない。適当な嘘なのだとすぐに分かる。 となると、彼の目的として思い当たることなど一つしかない。 「葵くん、さっき部屋に帰ったよ」 「別に聞いてないし」 素直ではない彼のために情報を提供してやればツレない返事が戻ってきたが、その表情に心なしかホッとした色が見えるのが彼の可愛いところだと奈央は思う。我儘に振る舞っているようで優しい一面を持ち合わせているのだ。ただ、本人にその自覚が全く無いところが厄介である。 「購買付き合おうか?」 「もういい」 ソファから立ち上がって提案すると、櫻は案の定購買のある方角ではなく、エレベーターホールへと足を向けてしまう。つくづく難儀な性格だ。けれど、そんな彼だからこそ、奈央も遠慮の無い付き合いが出来るのだと思う。 それ以上追及せずに後を追えば、きちんと奈央が追いつくまでエレベーターの扉を開けて待っていてくれる。彼は誤解されやすいが、奈央にとっては良い友人に違いはない。 「上野がサボってた分の仕事、三倍にして用意しておくから」 カードキーをエレベーター内部の操作パネルにかざした櫻は、あくまで奈央のほうを見ずに唐突に幸樹の名を出してきた。内容はどうであれ、幸樹に対しては当たりの強い彼が珍しい。 戻ってこなくていいとまで言っていたはずの櫻が、幸樹の役割を準備しておくと宣言してくる。つまりは”帰ってこい”、そう奈央経由で幸樹に伝えたいのだろう。 目的の階に到着するなり気が済んだとばかりにエレベーターの外へと繰り出す櫻の歩調と同じように、沈みかけていた奈央の心が少し、軽やかになる気がした。

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