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act.5三日月サプリ<162>

「生きていくために必死だったんだ。お坊ちゃんのアンタには食うものに困る生活なんて想像出来ないだろうけど」 形の良い指先を見せびらかしながら椿が告げてきた言葉には、穂高に対する好意は微塵も感じられない。馨に紹介され、初めて出会った時からどうにも彼は穂高に対して棘のある態度を貫いてくる。仲良くしよう、仲間だと擦り寄ってくるくせに本心ではそんな思いが全くないことは明らかだ。 どうやらその理由の一つが彼の今の発言から垣間見える。宮岡の情報が正しければ、彼は母親の手一つで育てられ、そして彼女の死を機に施設で育っていたらしい。それなりに金銭面でも苦労してきたことは察しがついた。 だが穂高も決して恵まれていたわけではない。 「あなたが想像するような生活など送っていませんよ」 不幸自慢をする気はない。だから穂高は椿が散らかしたアルバムをかき集めながら、そうとだけ返した。それでこの話題は途切れるかと思ったのだが、案外椿はまだ穂高とのお喋りに興じるつもりらしい。 「……へぇ、じゃあ穂高はどんな生活送ってたわけ」 ソファに身を投げたまま問いかける椿の姿は、だらしないどころかその容姿のおかげで絵になるほど美しく映える。だが彼にこれ以上流されるつもりはない。 「家族以外で私の名を呼び捨てる方は、社長とお坊ちゃまだけと決めておりますので」 「やっぱり俺のことは主人として認めてくれないわけね。寂しいねぇ」 きっぱりとした拒絶を口にしても、椿はちっとも気にしない素振りでソファの上で頬杖をついた。それを見届けて穂高は、集めたアルバムを元の場所、キャビネットへと並べ直す作業を始めた。 「それ全部葵の写真なんだよね。まぁアンタは知ってるだろうけど」 確かにキャビネットいっぱいに詰まっているのは葵の写真ばかり。それをわざわざ言葉にする彼の意図は何なのか。穂高は彼に背を向けたまま思案する。 椿は馨の息子という立場では葵と同列なはず。にも関わらず、この場には椿に関するものなど何一つ無い。彼は暗にそれを訴えたかったのではないだろうか。それぐらいしか穂高には思い当たらない。 「葵は喜ぶと思う?馨の愛情を受け入れるかな?」 黙る穂高に尚も椿は言葉を重ねてきた。静かな室内で低すぎない椿の声はよく通る。姿さえ視界に入れなければ、声すらも彼は父親によく似ていた。甘ったるい響きとは裏腹に、その奥底に毒気を感じる声音。 今現在の葵と直接接触していない穂高には、葵がもしも馨からのアプローチを受けた時どんな反応を見せるのか予想が付かなかった。けれど、幼い日の様子を思い出せば、少なくとも馨を拒絶することは出来ないだろうとは思う。 だからこそ、穂高は馨が葵に出会う日が訪れることを阻止したいと考えていた。恐らく西名家の面々も葵が当時どれだけ馨に心を囚われていたかを知っているからこそ、断固として接触を断とうとしているのだろう。葵が馨の手を自ら取ってしまう未来が有り得るからだ。

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