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act.6影踏スクランブル<7>

「いつからなんて……忘れた」 爽のお喋りに付き合うつもりはなかったが、彼の言葉をきっかけに少しだけ櫻は幼少期の思い出を蘇らせてしまう。最初は決して強制されて始めたわけではない。 華やかなドレスを身に纏う栗色の髪の女性。彼女はピアノに向かっていつも歌を歌っていた。その時々で変わる奏者と異様な程密着している残像が櫻の中にしっかりと刻まれているのだから、十中八九ただの稽古の時間ではなかったのだろう。 “櫻のピアノでも歌ってみたいわ” 血のように真っ赤なルージュを引いた唇で囁かれた言葉。いつもただ眺めることしか出来なかった櫻にとって、それは魅力的な誘いだった。 “習ってみる?きっと櫻には才能があるはずよ” これは悪魔の誘いだった。あそこで頷かなければ、きっと自分は自由だったかもしれない。今となってはもはや後悔することすら億劫だけれど、それでも時折考えてしまう。 彼女が櫻の講師として紹介したのは、よく家に来ていた男性で、それが櫻の父親でもあるのだと何度目かのレッスンで打ち明けられた。 「なんでそれ、やろうと思ったわけ?」 「なんでって……好きだから?自分で弾けたら楽しそうだなって思っただけなんすけど」 ピアノに体を凭れさせギターを指差せば、爽からは邪気のない真っ直ぐな理由が返ってくる。まだロクに弾きこなせないだろうに、大事そうにギターを抱える彼の表情は眩しい。 自分は一度だってあんな顔をしてピアノと向き合ったことがあっただろうか。 「いいね、幸せそうで」 嫌味ではない。本当にそう思ったのだ。爽は不思議そうにこちらを見つめ返してくるが、この感情は言葉にして説明出来るほど単純なものではない。 「月島先輩はピアノ好きじゃないんすか?」 「好きか嫌いか以前に、やらなきゃ生きていけなかったし」 大袈裟な表現ではない。課題曲を弾きこなせなければその日の食事にありつけないことすらあった。ただそれでメソメソと泣くような性格で無かったところが余計に事態を悪化させたのかもしれない、櫻は今になってそう思うようになった。 誰からも文句の付けようのないくらい上手くなって見返してやる。そんな復讐心が櫻の才能を最大限開花させたのだろう。もしあの時対抗する気など起こさず大人しくしていたら、ここまで月島の名に縛られることは無かったような気がする。 普段封じ込めていた感情を蘇らせた櫻は、今日はこれ以上ピアノを弾く気にはなれずにそっと鍵盤の蓋を下ろした。

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