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act.6影踏スクランブル<21>
* * * * * *
実質四人しか住人がいないフロアは当然のように廊下に誰の姿も見当たらない。しかし柔らかなカーペットの感触とうっすらと聴こえてくる弦楽器の音色のお陰で寂しいとは感じない。この場には葵の大好きな人しかない、という安心感さえある。
目的の場所へ行く前にその隣にある幸樹の部屋の扉前に立ち寄ってみるが、期待に反して人の居る気配は感じ取れなかった。
奈央の部屋の扉に備え付けられたチャイムを押すと返事は聞こえたものの、なかなかやって来てはくれない。取り込み中だったかも、そんな葵の不安は的中した。しばらくして出てきた奈央はまだ濡れた髪をタオルで拭っている状態だったのだ。
「葵くん、ごめんね待たせて」
奈央は葵の突然の訪問に驚いた様子だったが嫌な顔一つせず迎えてくれる。湯上りのせいか、色白な部類に入る彼の頬が赤らんでいるのが新鮮だ。
「あの、ごめんなさい。出直します」
「え?いや、大丈夫だよ。何か用事があったんだよね?」
身支度の整わないまま対応させるのは心苦しくて葵は一度立ち去ろうとしたのだが、奈央は気にする素振りもなく"おいで"と室内に誘ってくれる。
何度か訪れたことのある奈央の部屋は相変わらず居心地のいい空気で満たされている。過度な装飾はないものの、アイボリーの色味で統一された中に所々橙色のポイントが散りばめられているのも温かみを増しているのだろう。
ソファへと案内され、彼の淹れてくれたココアを差し出される間、葵は何から切り出したら良いか考えていなかったことに気が付き焦り始めていた。
いつも自分を励ましてくれる奈央の力になりたくて勢いでここまでやって来てしまったが、奈央にとっては触れられたくないことかもしれない。あの忍でさえ苦い顔をする相手に対し、何の力もない葵が出来ることがあると思えなかった。
先に沈黙を破ったのは、奈央のほうだった。
「あれからよくココアを飲むようになったんだ。寝る前に飲むと落ち着くね」
奈央も自身のマグカップに葵と同じココアを注いでいるらしい。自分の好きなものを同じように好んでくれる。それだけで満たされる気持ちになるのが不思議だ。けれど、励ますつもりが逆に癒やされてしまっているのが情けない。
「どこか分からない問題でもあった?」
「えっと、今日はそうじゃなくて……」
隣に座った奈央は葵の用件を勉強だと予想したらしい。時折こうして彼の部屋に訪れては宿題に付き合ってもらうことがあるのだから自然な流れだろう。今回は違うと返し、葵は言葉を続けた。
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