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act.6影踏スクランブル<62>

「ふ、藤沢くん、どうしたの?」 少し吃りのあるねっとりした声音には覚えがあった。だが、葵が首だけをそっと後ろに捻って確認しても想像とは違う人物の姿しかない。 糊の利いた汚れ一つ無い白衣。短く切り揃えられた髪。逆光で顔がよく見えないけれど、その清潔感のある身なりは声と合致しない。だが、目が眩しさに慣れてくるとやはりそこに居るのは彼のような気もする。 「……一ノ瀬、先生?」 確かめるように名を告げれば、彼は嬉しそうに笑って葵と視線を合わせるように腰を下ろしてきた。 「やっと会えた。早く見せたかったんだ」 何を、そう問い掛ける前に一ノ瀬は自分の白衣や髪に触れてアピールしてみせた。いつもくたびれたジャケットの上に薄汚れた白衣を着ていた彼は、髪も伸び放題の状態で髭すらもロクに剃っていなかった印象だ。 「どうかな?」 何かを期待するような一ノ瀬の視線を受け止めきれずに葵は思わず目を反らしてしまった。でも答えない限り解放してもらえない予感がする。 「……似合ってると、思います」 はたしてそれが正解なのか分からないが、葵は無難な言葉を口にした。陰気で不潔なイメージよりは今の姿のほうがずっと良いのは葵の本音でもある。 「そう、やっぱりこういうのが好きだったんだね。もっと早く言ってくれたら良かったのに」 まるで葵が変化を求めたかのような口ぶりに違和感を覚えてもう一度一ノ瀬に視線を向ければ、うっとりとした様子で手を伸ばしてきた。その指先が頬に触れた瞬間、背筋に嫌な寒気が走る。葵が好きだと思う人達と触れ合う時とは全く違う感覚。 「……どうして、逃げるの?」 思わず一ノ瀬の手を振り払って後ずさりすれば、彼は心外だと言わんばかりに距離を縮めてくる。 「葵くん」 今までずっと名字で呼んできた彼が唐突に下の名を呼んでくるのも、嫌だと感じてしまう。暴力を振るわれたわけでも、罵倒されたわけでもないのに、ただ目の前の存在が怖くてしかたない。 「あの、保健室行くので……」 彼から逃げる方法を考えた結果出てきた言い訳はこれだった。グラウンドにいる七瀬の元に行きたかったが、向かうには正面の一ノ瀬が障害だ。それに、教員である一ノ瀬に話し掛けられただけで感じた恐怖をどう説明したらいいかも分からない。角が立たずにこの場から去るにはそれしかないと思ったのだ。 「付き添うよ。この時間、自由だから」 葵の願いはあっさりと退けられた。葵をエスコートするかの如く、そっと手を取ってくるが、一ノ瀬の手が異様なほど震えているのが葵を余計に怖がらせる。 「一人で、大丈夫です」 そう言い返すのが精一杯で、葵はもう一度一ノ瀬の手を払うと後ろを振り返らずに駆け出した。走るのは不得手だったが、捕まったら今度こそ逃げる術がない予感がする。 グラウンドの敷地から出て校舎へと向かったところで少しだけ背後を見やると、まだ小さく白衣の色が見える。一ノ瀬は走ってまでは追ってきていないようだが、安心して立ち止まるにはまだ早いと分かった。とはいえ、すでに視界がチカチカと霞み始めている状態で走り続けるのは難しい。 うまい理由が見つからずとも、七瀬や熊谷に助けを求めていれば良かったと後悔してももう遅い。 なぜ逃げているのだろう。捕まったところで何があるのだろう。冷静に考えればそんな疑問が浮かんでくるのだが、どうしても足を止めるという選択は出来なかった。

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