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act.6影踏スクランブル<76>

* * * * * * 大柄の生徒が出ていったのを見計らって、一ノ瀬は隠れていた木立から姿を表し生ぬるい気温の温室へと足を踏み入れた。多種多様な植物が並んだ温室自体に興味があるわけではない。取り逃がした獲物がここへ逃げ込んだ姿を見つけてから、ジッと様子を伺っていたのだ。 本当は出入り口がひとつしかない温室に葵が入ったのを見つけて、安堵していたのだ。これでゆっくり会話が出来る、と。だが一ノ瀬が温室の中を覗けば、そこには先客が居て先に葵を見つけてしまった。その相手があろうことか、一ノ瀬を牽制する厄介な生徒会役員。とても一ノ瀬が太刀打ちできる相手ではない。 それでもせっかく掴みかけたチャンスを逃したくなくて、しばらく待機していた一ノ瀬の耳に、薄く開けた扉の奥から嬌声が聞こえてきたのだ。間違いなくあの男が葵に手を出している。一ノ瀬の、葵に。 強姦だと思いたかった。しかし葵が奴に”好き”と告げているのが聞こえてしまってはどうしようもない。 「……葵くん、どうして」 奥まった場所に並べられたテーブルセットに近づけば、濡れたゴムが二つも転がっていた。中から溢れた白濁の液が地面を汚しているのが見える。二人が性行為に及んでいたのは明らかに思えた。 一ノ瀬は白衣のポケットから一通の便箋を取り出した。一ノ瀬宛の手紙は昨日彼が拠点としている生物の準備室に置かれていたものだ。 中身は見覚えのある字体で、もっと短い髪が似合う、真っ白な白衣姿が見たい、そんな趣旨のことが書いてある。直接的な恋文ではないし、送り主の名も書かれていないが、一ノ瀬には分かる。これはずっと恋い焦がれていた葵からの控えめなラブレターだ。 だからすぐさま、ネットで調べた美容院に駆け込み、新品の白衣をおろして身に纏った。彼の期待に応えたかったのだ。 一ノ瀬が授業のない時間に体育を見学するのもきっと、二人で会話する機会を作るため、そう思った。話し掛けても逃げてしまう彼の行動も、手紙の送り主が自分だとバレて照れているのだと愛しくさえ感じた。 それなのに、葵は一ノ瀬の敵とも言える男に抱かれた。さすがに一ノ瀬にもその理由が分からなかった。悔しさのあまり、磨いた革靴で汚らわしいゴムを踏みつけたけれどちっとも気は晴れない。 自分の恋心を弄んでいるのか。いや、そんな子ではない。ずっと見守ってきた葵は無垢で純真だったはず。だからこそ恋しているのだ。 一ノ瀬は混乱する頭で必死に答えを探そうとしていた。 「あぁ……そうか。私の気持ちを確かめてるんだね、葵くん」 他の男に抱かれた葵を、それでも愛せるのか。きっと彼は一ノ瀬の愛が真実のものか確かめたいに違いない。導いた答えはそれしかなかった。 「惑わされてごめんね。大丈夫、どんな葵くんも愛してるから。心配しないで」 やはり健気な子だ。 今までだって他の男にキスをされている葵の姿を見たことはあった。きっとそれでも愛を貫いた一ノ瀬だから、葵は選んでくれたのだ。そして更なる試練を与えたのだろう。一ノ瀬の愛情に身を任せられず、不安がる葵が可愛くて仕方ない。 葵の体温でまだ温い青銅のベンチに頬を寄せて、一ノ瀬は彼への愛を誓う。 「愛してる。でも……これからは浮気しちゃダメだよ、葵くん」 代わりにめいっぱいの愛を注いであげるから。そう続けて一ノ瀬はこれからの葵との未来を思い描いてうっとりと目を伏せた。

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