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act.6影踏スクランブル<78>

「葵がうちに来てしばらくはね、こうしてこの部屋で一日一緒に過ごしてたんだよ。なんだか懐かしい気分だな。ちょうど今の都古の場所でずっと絵本を読んでてさ」 一仕事終えた安堵から日差しが差し込むフローリングにごろりと横になれば、陽平はキーボードを打つ手を止めてこちらを向いた。彼と二人だけでお喋りをする機会はそうなかったが、葵の過去の話を聞けるならば都古もそれに乗りたくなる。 「アオ、ずっと学校、行けなかったって」 「そう、聞いた?声も出せなかったし、この家から一歩も出たがらなかったからね。学校なんて行かせられないよ」 葵が家から出たがらない理由は都古にも察しがついていた。連れ出された先で捨てられることを恐れていたのだろう。 「葵がこの部屋に居る時は必ず扉を開けておかなくちゃいけなかったな、そういえば」 「……なんで?」 「門の開く音にすぐ気が付きたかったみたい。冬耶と京介が学校から帰ってきたら真っ先に駆け出してたからね」 プロジェクターで映画を観ることも出来るらしいこの部屋は確か防音になっていると以前聞いたことがある。葵が玄関まで出迎えに行くさまは、その光景を知らない都古でも不思議と容易に想像が出来た。 書斎とは名ばかりで室内がおもちゃや、西名家の子供たちが幼少期に描いたと思しきイラストでカラフルに飾り付けられているのも葵が長い時間を過ごす場として少しでも心安らかに過ごせるような配慮だったのだろう。 「アオはいつ、出られたの」 「ん?この家を?そうだな、いつだったかな」 都古が葵と出会った時は、すでに寮生活も始めていたし、成績優秀な優等生の立ち位置にいた。過去の葵に思い出話でしか触れられないのは寂しくなるが、聞かずにはいられない。 「最初は抱っこして門まで出るとこから始めたのは覚えてる。わんわん泣いちゃって、それすら馴らすのが大変だったんだから」 今となってはその苦労も愛しいと言わんばかりに、陽平は日に焼けた顔をくしゃくしゃにして笑う。 「でもそこから先に出掛けるのはもっと時間が掛かったな。隣の家が見えちゃうと、どうしてもな」 陽平は皆まで言わなかったが、西名家の隣にあるのは当然藤沢家。恐ろしい記憶ばかりが残る屋敷に気が付いた葵がどんな行動に走るのかは分かる。 そしてそんな葵をまだ完全な状態とはいえないものの、日常生活に支障がないほど回復させたのは他でもない西名家の面々だということも心得ていた。 比べるのは間違っている。自分はまだ葵と出会っていなかったのだから仕方ない。そう頭では理解していても、話を聞いてやはり悔しい気持ちが芽生えてしまうのは止められなかった。

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