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act.6影踏スクランブル<80>

「なんで、引っ越し、しなかった?」 陽平なら葵の怖がるものを全て排除することは厭わないはず。近所に住む人間は未だに葵に好意的でない者もいるのだし、離れたほうがよほど楽な選択だったのではと感じていた。 当然、陽平自身が設計したというこの家には思い入れはあるだろう。金銭的にも即決出来る話ではないとは理解できるが、それでも陽平はそのぐらい簡単に折り合いを付けて実行出来そうなほど葵に愛情を注いでいる。 「引っ越しなぁ。考えたんだけどね、そりゃ。でも葵が嫌がったんだ」 「アオが?」 「そ。最初は遠慮してるのかと思ったけど、それだけじゃなかったみたいで」 陽平は少し表情を陰らせてその時のことをより詳しく聞かせてくれた。 住む環境を変えること自体も葵をひどく混乱させるはず。そう思って葵に新しい家に移ることを提案すると、葵は嫌だと示すように泣きじゃくったらしい。そしてあれほど怯えていた隣家に近付き、離れたくないと言わんばかりにきつくチェーンの巻かれた門にしがみついてしまったという。自分の気持ちを言葉に出来なかった当時の葵の精一杯の主張だったのだろう。 「なんでだろうな。葵にとっては嫌な思い出だけじゃなかったのかな?」 都古に尋ねるというより、陽平は自分自身に投げかけるように呟いた。 都古には何となく葵の意図が分かる気がする。葵は実の家族が帰ってくることを心のどこかで待ち望んでいたのかもしれない。離れてしまえば本当に縁が断ち切れるような感覚に陥っても無理はない。逆に都古は完全な絶縁を望んだから一度も実家には帰らないし、近付きもしない。 でも陽平に都古の推測を話す気にはなれなかった。深く傷付ける予感がしたのだ。 「俺も紗耶香も、あのデカイの二人も葵が居てくれるなら何でも良かったから。引っ越すのはね、全然構わなかったんだよ、本当に」 ただ隣に住んでいただけ。そこまでの相手に彼らは何故そこまで愛情を注げたのか。都古にはそれも分からなかった。 「なんでアオ、引き取ったの?」 「今日の都古は"なんで"が多いな」 珍しく会話を続けたがる都古に陽平はおかしそうに笑ってみせた。 「大層な理由じゃない。皆あの子が好きだから。一緒に居たかったんだよ、ずっとね」 シンプルだけれど都古にはとても説得力のある言葉だった。確かに自分が葵の傍にいるのも好きだからに他ならないし、共に過ごせるのならきっと何でもする自信はある。

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