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act.6影踏スクランブル<87>
「教室戻るの?パンツないままでいいの?」
紐を結ばなければならない体育用のスニーカーではなく、制服と共に持ってきれくれたのだろう革靴に足を潜り込ませれば、七瀬は葵の腕を掴んで引き止めてきた。
「……忘れてた」
「もう。保健室だからどっかにあるんじゃない?」
重大な問題を失念していた葵を咎めるように七瀬は溜息をつくものの、本当に探してくれるつもりなのか、ベッドの周りの棚を漁り始めた。葵もそれにならうついでに、隣の空間に顔を出してみる。
まだ頭は少しくらくらするが気分は悪くない。むしろ一ノ瀬から逃げていた時と比べたらずっと良かった。久々に幸樹に会えて会話出来たことが、葵の中に凝り固まっていた不安を一つ溶かしてくれたのだと思う。
「……やっぱり、小太郎くんだ」
「うわっ!?」
扉の先を覗けば、そこには思った通り、一学年下の後輩が居た。丸椅子に座って脱脂綿に消毒液を染み込ませている最中だったようだが、葵が声を掛けるとまさか人が居たとは思わなかったのか椅子から転げ落ちるほど驚かせてしまった。
「ごめん、びっくりしたよね」
「や、あの、すみません。いらっしゃるとは思わなくて」
盛大に尻餅をついた小太郎に手を差し伸べるが、彼はそれを断ってすぐに立ち上がってみせる。
「うるさくして申し訳ないです。起こしちゃいました?」
「ううん、起きてたから大丈夫だよ。それより怪我、平気?」
小太郎は葵に気を遣っているのかピシッと起立した状態でちっとも椅子に座ろうとしない。その膝小僧が擦り剥けて血が滲んでいるのが見えた。
座るよう促せばようやく小太郎はどこか緊張した面持ちでようやく腰を下ろした。
「体育の授業でこけちゃって。全然大したことないんですけど、消毒だけはしとけって言われたんで」
「体育だったんだ」
小太郎をいつも見かけるのはグラウンドでの野球部の練習中。ごくまれに学園内で見かけても野球部のロゴが入ったポロシャツを常に身に着けているせいか、制服姿の印象がまったくない。だから彼がジャージを着ていても体育の授業だという発想は出なかった。
「ねぇ、聖くんと爽くんとはあれからお話してみてくれた?」
小太郎が手早く消毒を済ませていくのを見つめながら、葵はせっかくだからと可愛い後輩の話題を振ってみた。半ば強引に小太郎に押し付けてしまった、その後の様子が気になったのだ。
「挨拶したら返してくれるようになりましたよ。さっきも同じチームでしたし」
「……そっか、良かった」
今までクラスメイトからの挨拶すら無視していたのか。不安は過るものの、改善されたのなら触れるべきではないだろう。
「二人共オリエンちょっと楽しみになってきたみたい。小太郎くんのおかげだね。ありがとう」
「いや、俺は全然……何もしてないっす」
彼を選んで良かった。そう素直に感じて手を握って礼を言えば、何故か小太郎は困ったように赤くなり、そしてお辞儀をして飛び出していってしまった。何か変なことを言ってしまっただろうか。
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