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act.6影踏スクランブル<90>

「葵くん、相良が居なくて随分寂しがってるんじゃない?」 「そりゃもう。でも頑張ってますよ。遥が帰ってきた時沢山褒められたいみたいで」 「……あぁ相良はそれが狙い?そのために留学するって凄いな」 千景はあっさりと遥の意図を読んで肩をすくめてみせた。遥のスパルタ教育の度合いも、自分の人生を葵の成長に捧げる愛情深さも桁外れだ。 「来月一度帰ってくるんで、それが今はあーちゃんの目標になってるんです」 「もう帰ってくるの?」 「……ちょっと色々ありまして」 「色々?」 言い淀む冬耶を促すように、千景は優しく視線を送ってくる。 三つ年上の千景とはただ単に生徒会を通じての付き合い、というわけではない。互いに手のかかる弟を持つ者同士、良き相談相手でもあった。 「新入生歓迎会中にあーちゃん、湖に飛び込んじゃったんです」 「飛び込んだ!?どうしてそんな」 一分の隙もない整った容姿が与える印象とは裏腹に千景は口調も振る舞いも穏やかで柔らかい。だがそんな彼もさすがに驚きを隠せなかったようだ。眼鏡の奥の切れ長の目は、今はただ丸く見開かれている。 「きっかけはいくつか推測出来るんですけど、その時のあーちゃんの気持ちまでは分かってやれなくて」 冬耶と遥が卒業した時点で葵は心のバランスを崩し始めていた。そんな状態で幼い頃の記憶を蘇らせる絵本と湖というシチュエーションが揃ってしまって、一種のパニック状態に陥ったのだろう。 それに葵本人からはその日、忍から名前を呼んで欲しいと請われていたとも聞いた。葵の弟と同じ名前”シノブ”。それを口にすることも葵にとってはひどく辛い行為。 ただやはり冬耶には腑に落ちない部分もある。まだ何か葵を混乱させるような出来事があったように思えるのだ。藤沢家の人間が葵に接触しているのももしかしたら連休よりももっと前、それこそ歓迎会のタイミングではないか。そう疑いたくもなる。 だが、いくら千景相手でもここまでの話を聞かせることは憚られる。 「今は本人もその時のことに向き合う気で医者に通いだしたんで、結果的には良かったのかもしれませんけど」 冬耶がぼかすように結論づければ、千景は冬耶の胸に残る不安を見透かしたような目を向けてきた。だがそれ以上無理に聞き出すこともしない。 「冬耶に掛けてあげる言葉が見つからないのが情けないよ。冬耶のほうがよっぽど立派な”お兄ちゃん”だからなぁ」 のんびりとした口調だが、千景の声音にも深い悲しみが宿っていた。彼もまた、弟との接し方を悩み続けている。都古が実家を出てからまだ一度も千景は都古と顔を合わせていない。実家に関わりのあるものから徹底的に逃げたがる都古の意志を尊重した結果だ。

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